書籍・雑誌

2010/01/17

正法眼蔵の世界

前回書いた記事からいったいどれくらい経っているのだろうか?半年以上は放っているだろう。いくら過疎のブログとはいえこれは放って置きすぎた。面目ない。

この間に映画は何本か見ているが、さすがに今更書く気になれず、今日は書籍だ。

仏教哲理に関する本は何度か挑戦しているが、さっぱり理解できない。だけどいつかは制覇したい山であるのは確かで、しかもこの山が日本の文化に多大な影響を与えているのを考えれば跳ね返されるのを承知の上で挑戦したくなる。で、今回はどうだったか?もちろん跳ね返された。

書名のごとく道元の著作である正法眼蔵の内的世界を解説したものであるのだが、仏教的な専門用語以上に、その世界観の独特さに幻惑されてしまう。特に時間や空間と己との位置関係といっていいのだろうか、そいうものが非常に独特で、トレーニングを積んでいない僕は非常に単純な位置関係、すなわち直線的でしかも単線的なものしか頭にないものだから読んでいて非常にやっかいだった。しかもそれを自覚しつつも書籍の内容がきちんと頭に入ってこないものだから性質が悪い。

それでも、多分次の本を買ってきてしまうのだろうなと自覚する自分がいる。相手の壁が高ければ高いほど挑戦したくなるのが人間の欲なのだろうから。

今後はちゃんとブログを書かねば。いつまでも放っておいていいものではなかろう。いくら過疎のブログとはいえ。

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2009/06/19

孤高の禅師 道元

映画「禅」を見たこともあり勢いあまって買ってしまった本だ。意外と影響を受けやすい自分に苦笑する。

この本は「日本の名僧」というシリーズ本の9番目に当たるもので他に法然や一遍など、日本史の教科書に必ず出てくる有名人ばかりが入っている。

一読した感想は「いやはやなかなか手に負えんわい」というものであった。本書は最初、道元の生涯を簡単に追いながら、それぞれの諸問題についての小論が続くといった具合で、特に最後の2章は仏教哲理にかかわってくる内容で僕にとっては難解であった。だがしかし、これらの内容については仏教を専攻した人ならだれでも簡単にすっと頭に入ってくる内容なのではあるまいか?少なくとも専攻する学生には初歩的なのだろうが門外漢の僕にとっては難しいものであった。

本書に語られる道元はこの時代の人としてはかなり特異な存在であったようだ。特に5章の「道元の清規」にかなり特徴的に表れている。清規とは寺院内における生活の方法や儀式に関することを記したルールブックのようなものらしいのだが、同時代の他の僧侶と比べても罰則規定がなかったり、時の権力への迎合がなかったりシンプルな印象を受ける。その代りに修行をする者に対しては自己を徹底的に規律することを求めたものらしい。

印象でしか物をかたることができないのが何とももどかしいが、非常に現代的で洗練された考え方のように思われてならない。というのも僕が学生であったころはまさしく個の確立なるものが目指されていたように思うのだ。大江健三郎あたりの文章をずいぶん読まされて閉口した記憶があるが自立し、完成された個というものが何であるのかずいぶん叩き込まれたように思う。それからすると他律的な生き方を否定するこの道元の清規の考え方はしっくりくる。もっとも今ではずいぶん時代が変わって助け合って生きていこうみたいな考え方に変わっているのだろうけれども、そういったものの考え方にある種の嫌悪感を抱いてしまう僕にとっては自律的な生き方を目指す道元的な考え方は好ましいと言わざるを得ない。結局は人生は己の意志と決定とその責任によって決まると考える僕は個の確立を目指す少し古いタイプの人間なのかもしれない。

もう少し時間があったならこの道元という人を追求してみたい。そんなことを思ってしまった。

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2009/06/01

漢書に学ぶ「正しい戦争」

櫻田淳の著作を読むのは今回で2冊目だ。ずいぶん前に買ったものだが、今までほったらかしにしていた。もちろん興味があって買ったわけで、ほっておく必要などないのだがなかなか忙しく、このほど読了というわけだ。

一読して思ったのは「櫻田の言わんとすることはわからないではないが、これを万人に理解させるのは相当骨の折れる作業に違いない」ということだ。

軍事行動の態様を漢書「魏相丙吉傳」に従い5つに分類し解説しているのだが、本書の肝は恐らく最終章の『「フクロウ派」の信念』だろう。これは国際政治あるいは国際的な安全保障に対する心構えを説いたものだが、作者が提示するフクロウ派という語にこそわかりにくさが見え隠れする。

フクロウ派という語は専門家には既知のことかもしれないが門外漢の自分には初めて聞く概念だった。乱暴な言い方をすればハト派とタカ派の中間といった意味合いになるもののようだが、この中間という概念が実に曖昧だ。皮肉なことに本書に出てくるハト派やタカ派の語彙は実に豊富だがフクロウ派を表わす語彙の少なさは特筆に値する。それだけこの語が新しく、語そのものに歴史の蓄積の少なさが表れている。そもそもフクロウ派の概念をあらわすのにハト派やタカ派の概念を援用しなければならないのだから歴史の浅さは覆うべくもない。

だが、このフクロウ派の考え方そのものは今の日本にとっては非常に大事なことではないかと僕は考える。というのもそれまで支配的だった観念的な平和主義が湾岸戦争を皮切りにした国際情勢にものの見事に対応できず切り崩され、そのあと勃興するかに見えた保守あるいは民族主義的な考え方もその独善的な姿勢によって結局は国際社会のなかで生きていくことは難しそうだということが透けて見えてしまいそうな昨今においては偏りの少ないより現実的な選択を行ううえでは一種の光明を与えてくれそうな印象を少なくとも持たせてはくれる。

だが実際に何かを選択する場合にはこのフクロウ派の考え方は悩ましいものになるしかない。作者も言っていることだがハト派やタカ派の論議は実に明快でわかりやすい。それは議論の本質が自分が信ずる信念に忠実で純粋性をより高める方向に向きやすいためだからだ。極端に走ると作者は言うが、あらゆる事態に観客にしかなれない我々一般人にはこの極端に走るという極めて鮮明な色づけに目が向かいやすくなるのは致し方ないことだろう。翻ってフクロウ派の議論は煮え切らずつまらないものになりやすい。そりゃそうだ中間的なのだから。本書ではフクロウ派は情勢の統御を追求すると書いてはいるが、それは情勢を劇的に変えてくれる特効薬を持ち合わせていないということを初めから織り込まなくてはならず、選択肢として褪せて見えるのは仕方のないことだろう。悪くすれば情勢が膠着状態に陥ったらお手上げになってしまうということも考えられることなのだから。

だがしかし、現実的な選択として第三の道が用意されているのは考えてみれば幸いなことなのだ。選択することの責任の重さや未来への影響を考えたとき、少々つまらなく物足りない選択肢を半ば消極的に取らねばならない場面もあるかもしれないのだから。無難という安心を現実的と言い換えるのに人はさほど躊躇はしまい。

フクロウ派という語にかかわる概念の蓄積が今後進めば考えは少しは変わってくるかもしれない。そんなことを思った次第だ。

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2008/11/07

愛するということ

エーリッヒ・フロムの新訳版だそうだ。と、書いてみたものの本当はこういう作者も作品も全く知らないで買った本なのだが・・・。

新フロイト派に属する人のようで、とはいうものの新フロイト派なんていうものがあること自体初めて知ったのだが。いわゆる心理学者というもので了解していいんだろうと思う。

さて、今作だが何の予備知識もないで読む僕としてはなかなかとっつきにくい。というのも、この本は愛を素材にして心理学上の理屈を述べているからだろうと思う。要するに数学で公式だけ与えられてしまって途方に暮れている高校生のような気分になってしまうのだ。

頭の悪い僕としては実例を挙げてほしいところだ。愛というものを分析して内容を詳述するのはいいのだが、なんだか理屈っぽくてかなわない。実例が上がっていると理解のいい手助けになると思うのだが。

なんだか難解さだけが印象に残ってしまった。

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2008/10/29

夜は短し歩けよ乙女

天才ってのはいるもんなんだなとこの本を読むと率直に思う。森見登美彦の小説である。

一読して思うのはまるで童話のような、昔話のような、あるいは千夜一夜物語のような不思議な感覚がこの小説全体に流れていることだろう。僕は千夜一夜物語の影響は絶対あると思っている。

物語は二人の私によって進められる。一人の私は男性の大学生でもう一人の私である後輩の女の子に恋をしている。この女の子は先輩が自分のことを好きだということをまったく気付かずにいて、先輩のほうは何とか彼女の視界に入ろうと奮闘するのだ。そうしていろいろな騒動が勃発する。

奇妙奇天烈なキャラクタをーを周りに配し、幻想的な風景さえも現れるが意外とこの主人公たちが活動するのは狭い範囲だ。三谷作品のように物語が濃密になっている。特に傑作なのは御都合主義者かく語りきの大学の学園祭だろう。大学構内でまったく読者を飽きさせずにぐいぐい物語を進めていく様は圧巻だと言える。そして笑える。

非常に上質の笑いでしかも日本人の感性に非常にあっているように思う。キャラクターの設定などよく考えればありきたりな感じがしないでもないが、それを覆い隠すほど構成の妙と文体の非凡さがあふれているのだ。

今更僕が勧めるまでもないのだがこれは本当に面白い本だと思う。ぜひ読んでみていただきたい。村上春樹に代表される文学の対極に位置するものだと僕は思うのだが・・・。

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2008/10/15

田村はまだか

「田村はまだか」というタイトルに惹かれて買った。だってこんなに個性的なタイトルがあるか?「田村はまだか」何も伝えていないように見えて、でも何かがこの本の中に詰まっているような気がしないか?タイトルだけで買いを決めた。他に理由などない。

読んでみたら傑作だった。小学校の同窓生の男女、40歳になった五人が遠方に住んでいる田村の到着を待っている。その一人一人にまつわるエピソードの連作短編集になっているのだが、いやはや素晴らしい作品もあったものだ。

全部で6話の短編に隙がまったくない。どのエピソードも印象深いが、僕は第二話「パンダ全速力」が好きだ。新米サラリーマンとなんだかつかみどころのない先輩社員の関係をユーモラスに描いた話なのだが、なんだかこのエピソードのラストは切ない。切なさなど感じようがないエピソードなのになんだか切ない。すきだなぁ。この話。何だか苦味も感じる。人生とはこういうものなのだろうかとふと考え込みたくなる話になっている。

作者の朝倉かすみという人を僕は知らなかったが、一発でファンになってしまった。何だかとらえどころのない文章になってしまったのだが、よき作品を前にするとこっちの文章がなまくらになってしまう。とにかくよき小説だから、読んでみてくれ。頼む。

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2008/10/08

のぼうの城

なかなか売れているらしい。帯には10万部突破の文字が躍っているし、スピリッツでこの小説を原作にした漫画が連載開始になっている。おそらくは映画にもなるだろう。

はじめに言っておくがつまらないということはない。ちゃんとスペクタクルがあり、男同士の友情や淡い恋心も描かれている。面白さ満載なのだが、妙に心に残らない。何故なんだろう?

人物の造形があまりにもありふれているからかもしれない。主人公たる成田長親の描き方方、石田三成の描き方がなんだかつまらないのだ。

関東北条家の一支城の城代たる、成田長親は普段は凡庸で城下の農民にまでのぼう様と言われる人物だ。のぼうとは木偶の坊の略だ。それが秀吉の関東攻略の大軍に囲まれる。ここまで書けばわかるだろうが、そしてなんとなく予想はつくのだろうが、危機に陥る城を長親は見事な統率力でもって対処していく。

一方三成は豊臣家の若き官僚として武功を立てることに邁進する。曲がったことが大嫌い。そんな三成がこの攻城戦に求めたことは人間は銭や武力で誇りを失わないということを確かめること。良き好敵手にそれを求めることである。

実に既視感に溢れているではないか。そんなに単純か?意地の悪い突っ込みも入れたくなる。さらに悪いのはこの作者は司馬遼太郎にあこがれがあるのだろうか、ストーリーの間に豆知識的な予断を挟み込むことだ。物語は緊密性を持たなければならないと僕は信じているのだがそれをズタズタにする行為は作家として厳に慎まなければならないだろう。予断を挟んでなお物語の緊張感を維持できるのは司馬ぐらいのものなのだ。

もちろん見どころはある。水攻めにされ突風のように襲いかかる城の描写は写実的で素晴らしいものだ。開戦を決める長親の描写は格差社会の現代にかなった文章だろう。だがそれにしても陳腐だ。期待が大きかったがゆえにがっかり感もひとしおとなってしまった。残念な作品ではある。

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2008/05/06

しずり雪

プロフィールをみて驚いた。この作品がデビュー作であるという。それにしては熟練しているではないか。もう何年もプロとしてやっているような印象さえ受ける。

時代小説で短編の連作集である。もっとも岡っ引きの友五郎親分だけは全部の作品に出てきて作品に一貫性を与えてくれている。

時代小説でなおかつ町人物となると人情噺となるわけだが本作もその範疇にもれない。僕は人格が非情にできているのだろうか、この人情噺というのがいまいち好きになれない、僕が人情噺が嫌いな理由のひとつは登場人物がみな善人になってしまうというのがある。悪人風の人物がいても実はこんな背景がありました的なものがどうしてもなじめないのだ。この作品もその例にはもれないのだが、この作品は別だ。嫌いなのに好きにさせられてしまう不思議な魅力を持っている。

まず何といっても巧緻だ。ストーリーの構築もキャラクターの造形も描写の的確さも何もかも新人離れしている。「寒月冴える」という収録されてい短編などこれといった事件もないくせになぜか印象深い。

いろいろ考えるが、短編の効用というものだろうかと考える。紙面を埋めるために余計な描写をしている余裕がないのだろう。作中の人物がみなある種の厳しさを持っているような印象があるのは無駄を省いた文体にあると見た。善人しか出てこない作品なのに好ましく思えるのはそういった事情があるかもしれない。

なかなかよい作品だと思う。佳作と評してよいと思う。

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2008/04/21

ねにもつタイプ

これは面白い!断然面白い!!こんなに面白いものを読んだのは久しぶりだ。

もしカテゴリーに分けるとしたならば、この作品はエッセイということになるのだろう。だが一読して気付くことはエッセイという陳腐な枠組みをぶっ飛ばしているということだ。非常に良質のショートショートでもあり、けったいな妄想集でもあり、何だか深い思索の書でもある。いやそんな言葉さえも陳腐だと感じさせるほどに圧倒的な存在感なのだ。

天才だ。読むほどにニヤリとさせられ、読み進めていくと「ああ、あるある」と思わせて、でも良く考えるとそんなのあるのかと疑問を覚える。こんな文章なかなかお目にかかれるものではない。

例えばちいさな富士山の項を読んでみるといい。人間の妄想としても読めるが、エスカレートする欲望の様とも読めるではないか。直線的に見せながら、単純な直線などどこにもない。一癖も二癖もあるのだ。

あまりの面白さのために、僕はもうこの本を人に貸してしまった。今手元にはない。いますぐに再読できないのが残念で仕方がない。軽率なことをしたと軽く臍を噛んでいる次第だ。

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2008/04/08

春琴抄

言わずと知れた谷崎潤一郎の代表作だ。

久々に読んだ。いつ以来だろう?久々に読んで驚いたことはこんなに簡潔な文章であったのかということだ。一切の余分な修飾を省き、狂言回しである「私」が淡々と語るその様は一種のルポを読んでいる錯覚に陥らせる。

この小説は一応「私」が前時代に生きた二人の盲人の男女の記録を拾い上げて語るという体裁をとっている。作中に出てくる「鵙屋春琴伝」に立脚して全体を構成をしているがもちろんこの「鵙屋春琴伝」は作者の創作であろう。

「私」がこの二人の主人公に向ける眼差しはあくまでも客観的である。そこに不気味な迫力を感じないわけにはいかない。とくに名高い男主人公佐助が自らの両眼を縫い針で突くシーンは本来ならば一番力を入れ、詳細を極めた著述をするところであるだろうけれども、本作はそのような作法を取らずあっさりと描いている。このあっさりの匙加減が絶妙で主人公佐助の愛の純化が圧倒的な迫力をもって読者たる僕の胸に迫ってくる。

作品全体を見渡せば、本来あるべき会話部分がほとんど省略されてしまっている。所謂小説の作法を超越したような感じで、古い作品であるにもかかわらず、古さを感じさせない。真に生命力を持った文学とはこういうものかと舌を巻かずにはいられない。

話は変わるが、谷崎というと僕は極彩色のイメージがある。神々しい色使いというか、とにかく色が鮮やかな作品というイメージを持っている。それは多分に僕の勝手な印象なのではあるが、この極彩色のイメージが僕の中での谷崎の評価なのだ。

後年の傑作「細雪」はそういったものを感じさせない、枯淡な印象を与える。だから僕は谷崎の作品群のなかで、後半に属するものはあまり好きになれないのだ。「痴人の愛」や「刺青」前半から中期の作品が好きだ。まさに谷崎の色がこれでもかと盛り込まれているような気がしてならない。

そうであるから、ますます春琴抄の簡潔さがひどく印象に残るのだ。

不可解といえばそれはそうなのだろう。だが見事さの前に凡人の不可解さは跳ね返され途方に暮れてしまう。読者である僕のほうこそが鍛えられねばならないということに気付かせてくれる稀有な小説であると思う。

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