書籍・雑誌

June 19, 2009

孤高の禅師 道元

映画「禅」を見たこともあり勢いあまって買ってしまった本だ。意外と影響を受けやすい自分に苦笑する。

この本は「日本の名僧」というシリーズ本の9番目に当たるもので他に法然や一遍など、日本史の教科書に必ず出てくる有名人ばかりが入っている。

一読した感想は「いやはやなかなか手に負えんわい」というものであった。本書は最初、道元の生涯を簡単に追いながら、それぞれの諸問題についての小論が続くといった具合で、特に最後の2章は仏教哲理にかかわってくる内容で僕にとっては難解であった。だがしかし、これらの内容については仏教を専攻した人ならだれでも簡単にすっと頭に入ってくる内容なのではあるまいか?少なくとも専攻する学生には初歩的なのだろうが門外漢の僕にとっては難しいものであった。

本書に語られる道元はこの時代の人としてはかなり特異な存在であったようだ。特に5章の「道元の清規」にかなり特徴的に表れている。清規とは寺院内における生活の方法や儀式に関することを記したルールブックのようなものらしいのだが、同時代の他の僧侶と比べても罰則規定がなかったり、時の権力への迎合がなかったりシンプルな印象を受ける。その代りに修行をする者に対しては自己を徹底的に規律することを求めたものらしい。

印象でしか物をかたることができないのが何とももどかしいが、非常に現代的で洗練された考え方のように思われてならない。というのも僕が学生であったころはまさしく個の確立なるものが目指されていたように思うのだ。大江健三郎あたりの文章をずいぶん読まされて閉口した記憶があるが自立し、完成された個というものが何であるのかずいぶん叩き込まれたように思う。それからすると他律的な生き方を否定するこの道元の清規の考え方はしっくりくる。もっとも今ではずいぶん時代が変わって助け合って生きていこうみたいな考え方に変わっているのだろうけれども、そういったものの考え方にある種の嫌悪感を抱いてしまう僕にとっては自律的な生き方を目指す道元的な考え方は好ましいと言わざるを得ない。結局は人生は己の意志と決定とその責任によって決まると考える僕は個の確立を目指す少し古いタイプの人間なのかもしれない。

もう少し時間があったならこの道元という人を追求してみたい。そんなことを思ってしまった。

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June 01, 2009

漢書に学ぶ「正しい戦争」

櫻田淳の著作を読むのは今回で2冊目だ。ずいぶん前に買ったものだが、今までほったらかしにしていた。もちろん興味があって買ったわけで、ほっておく必要などないのだがなかなか忙しく、このほど読了というわけだ。

一読して思ったのは「櫻田の言わんとすることはわからないではないが、これを万人に理解させるのは相当骨の折れる作業に違いない」ということだ。

軍事行動の態様を漢書「魏相丙吉傳」に従い5つに分類し解説しているのだが、本書の肝は恐らく最終章の『「フクロウ派」の信念』だろう。これは国際政治あるいは国際的な安全保障に対する心構えを説いたものだが、作者が提示するフクロウ派という語にこそわかりにくさが見え隠れする。

フクロウ派という語は専門家には既知のことかもしれないが門外漢の自分には初めて聞く概念だった。乱暴な言い方をすればハト派とタカ派の中間といった意味合いになるもののようだが、この中間という概念が実に曖昧だ。皮肉なことに本書に出てくるハト派やタカ派の語彙は実に豊富だがフクロウ派を表わす語彙の少なさは特筆に値する。それだけこの語が新しく、語そのものに歴史の蓄積の少なさが表れている。そもそもフクロウ派の概念をあらわすのにハト派やタカ派の概念を援用しなければならないのだから歴史の浅さは覆うべくもない。

だが、このフクロウ派の考え方そのものは今の日本にとっては非常に大事なことではないかと僕は考える。というのもそれまで支配的だった観念的な平和主義が湾岸戦争を皮切りにした国際情勢にものの見事に対応できず切り崩され、そのあと勃興するかに見えた保守あるいは民族主義的な考え方もその独善的な姿勢によって結局は国際社会のなかで生きていくことは難しそうだということが透けて見えてしまいそうな昨今においては偏りの少ないより現実的な選択を行ううえでは一種の光明を与えてくれそうな印象を少なくとも持たせてはくれる。

だが実際に何かを選択する場合にはこのフクロウ派の考え方は悩ましいものになるしかない。作者も言っていることだがハト派やタカ派の論議は実に明快でわかりやすい。それは議論の本質が自分が信ずる信念に忠実で純粋性をより高める方向に向きやすいためだからだ。極端に走ると作者は言うが、あらゆる事態に観客にしかなれない我々一般人にはこの極端に走るという極めて鮮明な色づけに目が向かいやすくなるのは致し方ないことだろう。翻ってフクロウ派の議論は煮え切らずつまらないものになりやすい。そりゃそうだ中間的なのだから。本書ではフクロウ派は情勢の統御を追求すると書いてはいるが、それは情勢を劇的に変えてくれる特効薬を持ち合わせていないということを初めから織り込まなくてはならず、選択肢として褪せて見えるのは仕方のないことだろう。悪くすれば情勢が膠着状態に陥ったらお手上げになってしまうということも考えられることなのだから。

だがしかし、現実的な選択として第三の道が用意されているのは考えてみれば幸いなことなのだ。選択することの責任の重さや未来への影響を考えたとき、少々つまらなく物足りない選択肢を半ば消極的に取らねばならない場面もあるかもしれないのだから。無難という安心を現実的と言い換えるのに人はさほど躊躇はしまい。

フクロウ派という語にかかわる概念の蓄積が今後進めば考えは少しは変わってくるかもしれない。そんなことを思った次第だ。

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November 07, 2008

愛するということ

エーリッヒ・フロムの新訳版だそうだ。と、書いてみたものの本当はこういう作者も作品も全く知らないで買った本なのだが・・・。

新フロイト派に属する人のようで、とはいうものの新フロイト派なんていうものがあること自体初めて知ったのだが。いわゆる心理学者というもので了解していいんだろうと思う。

さて、今作だが何の予備知識もないで読む僕としてはなかなかとっつきにくい。というのも、この本は愛を素材にして心理学上の理屈を述べているからだろうと思う。要するに数学で公式だけ与えられてしまって途方に暮れている高校生のような気分になってしまうのだ。

頭の悪い僕としては実例を挙げてほしいところだ。愛というものを分析して内容を詳述するのはいいのだが、なんだか理屈っぽくてかなわない。実例が上がっていると理解のいい手助けになると思うのだが。

なんだか難解さだけが印象に残ってしまった。

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October 29, 2008

夜は短し歩けよ乙女

天才ってのはいるもんなんだなとこの本を読むと率直に思う。森見登美彦の小説である。

一読して思うのはまるで童話のような、昔話のような、あるいは千夜一夜物語のような不思議な感覚がこの小説全体に流れていることだろう。僕は千夜一夜物語の影響は絶対あると思っている。

物語は二人の私によって進められる。一人の私は男性の大学生でもう一人の私である後輩の女の子に恋をしている。この女の子は先輩が自分のことを好きだということをまったく気付かずにいて、先輩のほうは何とか彼女の視界に入ろうと奮闘するのだ。そうしていろいろな騒動が勃発する。

奇妙奇天烈なキャラクタをーを周りに配し、幻想的な風景さえも現れるが意外とこの主人公たちが活動するのは狭い範囲だ。三谷作品のように物語が濃密になっている。特に傑作なのは御都合主義者かく語りきの大学の学園祭だろう。大学構内でまったく読者を飽きさせずにぐいぐい物語を進めていく様は圧巻だと言える。そして笑える。

非常に上質の笑いでしかも日本人の感性に非常にあっているように思う。キャラクターの設定などよく考えればありきたりな感じがしないでもないが、それを覆い隠すほど構成の妙と文体の非凡さがあふれているのだ。

今更僕が勧めるまでもないのだがこれは本当に面白い本だと思う。ぜひ読んでみていただきたい。村上春樹に代表される文学の対極に位置するものだと僕は思うのだが・・・。

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October 15, 2008

田村はまだか

「田村はまだか」というタイトルに惹かれて買った。だってこんなに個性的なタイトルがあるか?「田村はまだか」何も伝えていないように見えて、でも何かがこの本の中に詰まっているような気がしないか?タイトルだけで買いを決めた。他に理由などない。

読んでみたら傑作だった。小学校の同窓生の男女、40歳になった五人が遠方に住んでいる田村の到着を待っている。その一人一人にまつわるエピソードの連作短編集になっているのだが、いやはや素晴らしい作品もあったものだ。

全部で6話の短編に隙がまったくない。どのエピソードも印象深いが、僕は第二話「パンダ全速力」が好きだ。新米サラリーマンとなんだかつかみどころのない先輩社員の関係をユーモラスに描いた話なのだが、なんだかこのエピソードのラストは切ない。切なさなど感じようがないエピソードなのになんだか切ない。すきだなぁ。この話。何だか苦味も感じる。人生とはこういうものなのだろうかとふと考え込みたくなる話になっている。

作者の朝倉かすみという人を僕は知らなかったが、一発でファンになってしまった。何だかとらえどころのない文章になってしまったのだが、よき作品を前にするとこっちの文章がなまくらになってしまう。とにかくよき小説だから、読んでみてくれ。頼む。

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October 08, 2008

のぼうの城

なかなか売れているらしい。帯には10万部突破の文字が躍っているし、スピリッツでこの小説を原作にした漫画が連載開始になっている。おそらくは映画にもなるだろう。

はじめに言っておくがつまらないということはない。ちゃんとスペクタクルがあり、男同士の友情や淡い恋心も描かれている。面白さ満載なのだが、妙に心に残らない。何故なんだろう?

人物の造形があまりにもありふれているからかもしれない。主人公たる成田長親の描き方方、石田三成の描き方がなんだかつまらないのだ。

関東北条家の一支城の城代たる、成田長親は普段は凡庸で城下の農民にまでのぼう様と言われる人物だ。のぼうとは木偶の坊の略だ。それが秀吉の関東攻略の大軍に囲まれる。ここまで書けばわかるだろうが、そしてなんとなく予想はつくのだろうが、危機に陥る城を長親は見事な統率力でもって対処していく。

一方三成は豊臣家の若き官僚として武功を立てることに邁進する。曲がったことが大嫌い。そんな三成がこの攻城戦に求めたことは人間は銭や武力で誇りを失わないということを確かめること。良き好敵手にそれを求めることである。

実に既視感に溢れているではないか。そんなに単純か?意地の悪い突っ込みも入れたくなる。さらに悪いのはこの作者は司馬遼太郎にあこがれがあるのだろうか、ストーリーの間に豆知識的な予断を挟み込むことだ。物語は緊密性を持たなければならないと僕は信じているのだがそれをズタズタにする行為は作家として厳に慎まなければならないだろう。予断を挟んでなお物語の緊張感を維持できるのは司馬ぐらいのものなのだ。

もちろん見どころはある。水攻めにされ突風のように襲いかかる城の描写は写実的で素晴らしいものだ。開戦を決める長親の描写は格差社会の現代にかなった文章だろう。だがそれにしても陳腐だ。期待が大きかったがゆえにがっかり感もひとしおとなってしまった。残念な作品ではある。

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May 06, 2008

しずり雪

プロフィールをみて驚いた。この作品がデビュー作であるという。それにしては熟練しているではないか。もう何年もプロとしてやっているような印象さえ受ける。

時代小説で短編の連作集である。もっとも岡っ引きの友五郎親分だけは全部の作品に出てきて作品に一貫性を与えてくれている。

時代小説でなおかつ町人物となると人情噺となるわけだが本作もその範疇にもれない。僕は人格が非情にできているのだろうか、この人情噺というのがいまいち好きになれない、僕が人情噺が嫌いな理由のひとつは登場人物がみな善人になってしまうというのがある。悪人風の人物がいても実はこんな背景がありました的なものがどうしてもなじめないのだ。この作品もその例にはもれないのだが、この作品は別だ。嫌いなのに好きにさせられてしまう不思議な魅力を持っている。

まず何といっても巧緻だ。ストーリーの構築もキャラクターの造形も描写の的確さも何もかも新人離れしている。「寒月冴える」という収録されてい短編などこれといった事件もないくせになぜか印象深い。

いろいろ考えるが、短編の効用というものだろうかと考える。紙面を埋めるために余計な描写をしている余裕がないのだろう。作中の人物がみなある種の厳しさを持っているような印象があるのは無駄を省いた文体にあると見た。善人しか出てこない作品なのに好ましく思えるのはそういった事情があるかもしれない。

なかなかよい作品だと思う。佳作と評してよいと思う。

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April 21, 2008

ねにもつタイプ

これは面白い!断然面白い!!こんなに面白いものを読んだのは久しぶりだ。

もしカテゴリーに分けるとしたならば、この作品はエッセイということになるのだろう。だが一読して気付くことはエッセイという陳腐な枠組みをぶっ飛ばしているということだ。非常に良質のショートショートでもあり、けったいな妄想集でもあり、何だか深い思索の書でもある。いやそんな言葉さえも陳腐だと感じさせるほどに圧倒的な存在感なのだ。

天才だ。読むほどにニヤリとさせられ、読み進めていくと「ああ、あるある」と思わせて、でも良く考えるとそんなのあるのかと疑問を覚える。こんな文章なかなかお目にかかれるものではない。

例えばちいさな富士山の項を読んでみるといい。人間の妄想としても読めるが、エスカレートする欲望の様とも読めるではないか。直線的に見せながら、単純な直線などどこにもない。一癖も二癖もあるのだ。

あまりの面白さのために、僕はもうこの本を人に貸してしまった。今手元にはない。いますぐに再読できないのが残念で仕方がない。軽率なことをしたと軽く臍を噛んでいる次第だ。

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April 08, 2008

春琴抄

言わずと知れた谷崎潤一郎の代表作だ。

久々に読んだ。いつ以来だろう?久々に読んで驚いたことはこんなに簡潔な文章であったのかということだ。一切の余分な修飾を省き、狂言回しである「私」が淡々と語るその様は一種のルポを読んでいる錯覚に陥らせる。

この小説は一応「私」が前時代に生きた二人の盲人の男女の記録を拾い上げて語るという体裁をとっている。作中に出てくる「鵙屋春琴伝」に立脚して全体を構成をしているがもちろんこの「鵙屋春琴伝」は作者の創作であろう。

「私」がこの二人の主人公に向ける眼差しはあくまでも客観的である。そこに不気味な迫力を感じないわけにはいかない。とくに名高い男主人公佐助が自らの両眼を縫い針で突くシーンは本来ならば一番力を入れ、詳細を極めた著述をするところであるだろうけれども、本作はそのような作法を取らずあっさりと描いている。このあっさりの匙加減が絶妙で主人公佐助の愛の純化が圧倒的な迫力をもって読者たる僕の胸に迫ってくる。

作品全体を見渡せば、本来あるべき会話部分がほとんど省略されてしまっている。所謂小説の作法を超越したような感じで、古い作品であるにもかかわらず、古さを感じさせない。真に生命力を持った文学とはこういうものかと舌を巻かずにはいられない。

話は変わるが、谷崎というと僕は極彩色のイメージがある。神々しい色使いというか、とにかく色が鮮やかな作品というイメージを持っている。それは多分に僕の勝手な印象なのではあるが、この極彩色のイメージが僕の中での谷崎の評価なのだ。

後年の傑作「細雪」はそういったものを感じさせない、枯淡な印象を与える。だから僕は谷崎の作品群のなかで、後半に属するものはあまり好きになれないのだ。「痴人の愛」や「刺青」前半から中期の作品が好きだ。まさに谷崎の色がこれでもかと盛り込まれているような気がしてならない。

そうであるから、ますます春琴抄の簡潔さがひどく印象に残るのだ。

不可解といえばそれはそうなのだろう。だが見事さの前に凡人の不可解さは跳ね返され途方に暮れてしまう。読者である僕のほうこそが鍛えられねばならないということに気付かせてくれる稀有な小説であると思う。

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April 05, 2008

国家の役割とは何か

何だか品のいい、口当たりのソフトな書物である。作者である櫻田淳はブログを開設していて僕はそのブログのファンではあるのだが、普段の彼の冷めた切れ味の鋭い言葉とは打って変わったその文章の雰囲気に驚いた。

もっともこれは本書の意図するところが政治学を学んだことがない人々に向けての本であるからかもしれない。牙は意図して隠されているのかもしれない。

さてかくいう僕も政治学はまったくの素人だ。だからこの本のメインターゲットに入っているのだが、読後感は何だか不可解なものだった。わかったような、わからないような。知っていることを改めて確認したような、そうでないような。ある種の欲求不満があるかもしれない。

この読後感はどこから来るのかといえば、本書のタイトルと内容のわずかなずれにあるかもしれない。本書のタイトルは「国家の役割とは何か」だが、実際に記述されているのは国家の機能の説明であろう。内容的には国家の仕事を「力の体系」「利益の体系」「価値の体系」に大別し詳述するのだが、その記述は機能の羅列であって役割というには程遠い。したがって、読んだあとは実に雑多な知識が並んでいるという印象を与えるのだ。

ただ機能について書いているのだと思えば面白く読むことができる。「価値の体系」関して言えば日本を取り巻く現状をつぶさに見渡すことができる。一言で言えば昨今言われるようなソフトパワーについての説明に多くを割いているため日本のこの分野でのプレゼンスの高まりをよりわかりやすく理解できるだろう。

次は日本の国家論とかそういう感じのものが読めたら幸いだ。

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March 30, 2008

とろ その生涯

本との出会いにはいろいろあるだろうが、この本に関しては妙な気が出ているような感じがしてならなかった。何せ、タイトルが妙だし、表紙の絵もマグロの絵だし、何だかけったいな本だなぁというのが最初の印象だった。何度かその本の前を通り過ぎ、他のものを買おうかと思っていたのについ手にとってしまったのだ。

一読した感想はと問われれば、う~ん何だかよくわからない。妙な感じなのだ。この小説は果たして傑作なのか?

ストーリーは明快だ。太平洋戦争中兵隊にとられた主人公とろの生涯をつづったもので、狂言回しの筆者はとろが死んだ後、主人公に頼まれてその生涯を一冊の本にまとめる。

筆者は言う、とろは日本一の愛国者であって、世界一の平和主義者だと。

よくわからんのは愛国者と評している割には愛国者振りが描写されていないことだろう。読んでいる方にしてみれば腑に落ちない。平和主義者である描写はいくつかでてくるけど・・・。

さらに言えばこの本の主人公とろはぶっ飛んでいる。兵隊にとられた彼は軍隊の補給部門に回され、一頭の道産子と出会う青弥、通称アオというウマだ。とろは新兵の訓練期間中に敵に見立てたわら人形をうまく銃剣で突けずに地面を突き刺し、上官から「とろい」のとろというあだ名を頂戴していた。このとろがアオというウマと話ができるのだ。もちろん日本語で。

ね、ぶっ飛んでるでしょ?

アオに決闘を申し込まれたり、友情を育んだりするのだが、最後はとろを庇ってアオは銃弾に倒れてしまう。

終戦を迎えて、家に帰れば、許婚のみ雪と結婚するものの、彼女はとろの実父によって戦時中乱暴され、心に傷を負っていた。

・・・・・何だか、ストーリーを説明するのが大変な小説なのですよ。

ほんでもって実家をみ雪とともに出奔した彼は田舎に居を構え商売に精を出す。そして大金持ちになって、気の合う仲間と酒を飲んで楽しく過ごす。たまに不倫なんかもして。

・・・・・ね、だから説明が難しいって言ったでしょ。

内容てんこ盛りの小説なのだ。エピソード同士の緊密な関係は希薄かもしれない。でもなんだか面白いんだよなぁ。何となく憎めないような、かわいらしいようなそんな小説だ。気になっちゃうっとでもいうのかな?ほっとけないとでもいうのかな?

とにかく不思議な小説です。内容も装丁も。

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January 07, 2008

星新一 一〇〇一話をつくった人

ショートショートの分野で第一人者星新一の伝記である。

600頁弱の分厚い本であるが、ページの最初から最後までスカッとするところが少なく、読了後は何だか切なくなってしまった。

終始一貫しているのは星新一は孤独であるということか。酒の席では随分放言もしたらしいが、編集者や外部の人に見せる極めて紳士的な態度の落差を思うにつけ悲しくなる。接する人によって顔を使い分けることほど悲しいものはないだろう。それは外界に対する自我の強烈な防衛に僕には見えてしまう。ならば防衛したその自我の中身は一体なんなのだろうと考えるとそれはなかなかに難しい。案外空っぽであることも少なくないのだ。

本書で一番衝撃的なのは「人を信用しない人だった」という夫人の言葉だろう。一番身近にいて星新一を見つめ続けてきた人の言葉は重い。確かに星は若い頃、父親の事業を継いで苦労をしたのだろうがそればかりではあるまい。大人になる過程で本来人が身につけるはずの何かを欠落させたまま成長していったためなのだろうと思う。本書の指摘にもあるように兄弟とは離れて育てられたということもあるだろう。だがそれだけでは多分理由のすべてを充たすことはできないと思う。

星新一が自分のルーツを辿るように父と祖父を作品にしたのは特筆に価すると思うのだ。戦後の日本文学で父親というのは母親に比べれば随分比重が軽くなるというのが僕の見立てなのだが、そうした潮流にあって、父を描くというのはどういうことなのだろう。いまだ語られぬ父が巨大な塊となって星新一の作品群の奥に鎮座しているような気がしてならない。

さて、話は変わるが、この本は星新一の伝記ではあるけれども同時に日本のSFの伝記でもある。熱心な一人のマニアから出発していって、星新一という天才を得て普及定着していく様は、同時期に出発した日本漫画の創生を思い起こさせて興味深い。手塚とトキワ荘の仲間はこれまで映像作品にさえなったもので、人々の間に随分広がっていると思うが、同じようなことがSFの世界でも起きていたというのは面白いことだと思う。こういう部分を読むだけでも価値のある本だと思った次第だ。

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November 22, 2007

兵士に告ぐ

自衛隊の今を伝える貴重なルポの第4弾だ。もっとも僕は第三弾の「兵士を追え」を読んでいないのであまりいい読者とはいえないのだが。

本書の特徴は一言でいえばわかりにくいということだろうと思う。今回は九州に新しくできた西部方面普通科連隊を中心にして描かれているが、日本の安全保障環境がそれまでの北海道中心から中国を睨んだ九州地域への改編時期にあたり、自衛隊のもっとも分厚いベールに包まれた部分を取材していることから来ているのではないかと思う。西部方面普通科連隊の凄さも役割も重要さもそこからくる隊員の葛藤もなんだかすりガラス越しに見ているような気がしてならないのだ。

おそらく大部分の日本人がわが国の安全保障環境がそれ以前と比べて大変難しくなっているのは理解していると思う。憲法九条に関する世論調査において改憲派増えているのはその証左であろう。だからこそ国家が何を考えどう行動しようとしているのか誰もが知りたいと願っているのだ。

本書の取材方法はそれまでの取材方法と変わらず、末端の兵士にインタビューをするというものである。時にはその厳しい訓練にくっついていくということまでしている。いわばボトムアップ式の取材方法と言えるだろう。本書に出てくる自衛官の階級でもっとも高いのは百十数名を束ねる中隊長である。それより上の階級の人にもインタビューを試みているようだがほとんど出てこない。名もなき兵士の呟きを聞き漏らすまいという姿勢は素晴らしいものだ。僕らが普段接する「自衛隊」は新聞やテレビに出てくる「自衛隊」であってその生の姿を垣間見ることはほとんどない。兵士の息遣いまで聞こえるようなこのルポはその意味で大変貴重なのだ。

だがそれでもわからないことが多い。例えば米軍との一体化である。より強固になっていく米軍との一体化の波を現場で捉えようとしているが、その波の正体が一体なんなのか正直腑に落ちない。本書ではミリミリの話や自衛官なのに射撃をちっともさせてもらえないS士長の話が出てきて、日本的な組織のあり方が解体されていくのを描いているが、それがどんな結果になってどんな幸不幸を招くのか描ききれていない。少なくとも自衛隊のなかにおいて米軍が神聖にして侵すべからざる存在であることはわかるのだがそれによってもたらされる影響の広がりと深さがわからないのだ。

おそらく必要なのは幹部自衛官が何を考えているのかを探ることなのだろう。それは国家の秘密に触れることでもありなかなか難しいことだとは思うのだが、もし次回作があるのならそういった点にもう少しつっこんでいただきたいと僕は思う。

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October 27, 2007

「普通がいい」という病

どうしてこの本を読んだかというとただ単純に雑誌に書評が載っていたからというものだ。格別深い理由はない。普段からこの手の本は読まないようにしている。ある種の甘えが見えるような気がして虫唾が走るのだ。

だがしかし予想に反してなかなかの良書であった。精神科医が書いた、自分というものをきちんと持ちましょうという感じの本であるのだが、その境地にたどり着くまでの過程が実によく書かれている。

なかなか単純には消化できないでいるのだが、おそらくこの本のもっとも良い点は孤独をきちんと評価しているところだろう。孤独と向き合うという一般的な評価ではなく、孤独から愛が導き出されるということをきちんと書いている点がいいと思う。もっとも僕と作者が違うのは愛が導き出された後なのだが。

作者は愛が導きだされたあと、愛とは相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちであると定義するが、僕は愛とは身も心もすべて相手に捧げ拝跪することだと思っている。したがって後半になればなるほど作者と僕の乖離は広がるばかりなのだが。

だが、だからといってこの本をけなす理由にはならないだろう。この本の内容もまた真実なのだと思うから。

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October 12, 2007

あかね空

映画を先に観て小説を後から読むパターンである。しかも映画から半年ほど経ってからの読書はなかなかにいい。映画の印象が程よく消えているから余計な雑念が消える感じだ。

さて、直木賞受賞作でもあるこの作品は面白いの一言だろう。映画と同じく家族の崩壊と再生を描いているのだが、やはり直球勝負のすがすがしい仕上がりだ。

構成が面白いと思った。本書の3分の2は永吉とおふみのことに終始するのだが、最後の3分の1はその子供達の物語である。永吉とおふみのすれ違いを夫婦の視点で見せておいてから、その隙間を埋めるかのように子供達の記憶の中の夫婦が描かれている。夫婦が思い描いていた子供の心理と実際の子供の心理の食い違いを見せる手法は鮮やかであるかもしれない。もっとも構成を二つに分けるのは相当の熟達した技量がないと無理なのだと思う。破綻なく物語を練り上げていけるこの作者の腕のよさに驚く。

ただ、人情ものというカテゴリーはどうなんだろう?僕自身の好みのみでいえばそれほど面白いとは思えぬカテゴリーなのだ。とくに傳蔵と子供達の対決シーンはやはり小説で読んでも気持ちが萎える。あのシーンをとってしまえたらいいのにと思ってしまう。オチのわかる作品というのはちょっとなぁと思ってしまった次第だ。

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October 07, 2007

雷蔵、雷蔵を語る

この本の裏表紙には「雷蔵が自身の言葉で著した唯一の著作」などと書いているが、実際には雷蔵の後援会(今で言えばファンクラブといった方が妥当だろう)会報に載せた自身の近況報告を集めたものに過ぎないと言える。したがって自伝的なエッセイを期待する人には不向きな本であるかもしれないが、近況報告が中心であるがゆえに時代の息吹が意識せずに織り込まれて時代背景がよくわかって面白い。昭和30年代を知らぬもの、具体的には高度成長期を知らぬものには新鮮な驚きを与えてくれる本だ。

本を読んだ第一の印象は非常に生真面目な雷蔵の姿だ。所属映画会社に対する責任を自覚する一方、忙しすぎる撮影に疲れ、一つの作品を腰をすえて作りたいという意識が垣間見える。テレビの黎明期にあって映画産業が斜陽に向い始める丁度その時を雷蔵は生きていたわけでその苦悩する姿がのちの時代を生きる僕らにある種のライブ感を与えてくれる。時代のダイナミズムとでもいうのだろうかそういったものを感じさせる本だ。

それから生真面目な雷蔵の姿として、一人の人間の生き方を真摯に考えているところが非常に面白い。特に結婚に関する考察は興味深く、また微笑ましい。「立派な家庭を築きたい」と語る雷蔵の姿には現代人とは少し違った感性があるように思えてならないのだ。おそらく今の人は「楽しく、暖かみのある家庭を築きたい」語るのではないか。そこには昭和30年代の人と現代の人との意識の違いが巧まずして織り込まれているようだ。雷蔵の時代は敗戦から立ち上がり高度成長期を迎えて、世界に羽ばたいてやろうという、司馬遼太郎風に言えば「坂の上の雲」を掴もうとする時代の感覚があった。「立派な家庭」もまた、坂の上の雲を掴もうとする過程に織り込まれている事象なのだろう。しかし成熟した社会に住むのちの時代の我々は坂の上の雲を掴んでは見たものの、そこには必ずしも幸せはなかったというある種の落胆がある。落胆は家庭という概念の位置づけを変え、癒しや安らぎを家庭に求めることとなったが、外の世界で傷付き疲れ果てて家庭に戻ってくる人々は家庭の崩壊を目の当たりにすることも珍しくないのだから悩みは深いといえる。おそらくは家庭に属する人々全員が傷や疲れを自覚し、それらを家庭に持ち込むことで家庭に包容力がなくなっているのではないかと思う。安らぎの場所が傷の持ち寄り所になったのだから致し方ないではないか。そんな風に僕は思っているのだが・・・。

驚いたのは雷蔵の海外旅行のくだりである。彼の海外旅行はアメリカだったが、この時代海外では日本ブームが起きていたのだ。こんなことがこの時代に起きていたとは驚きだった。時代劇が中心になって海外にたくさん輸出されていたらしいがそんなムーブメントがあったなんて知らなかった。現在アニメを中心にして日本の映像コンテンツがたくさん輸出されているが、その露払いがこの時代にすでに行われていたのだ。道理でハラキリが英語になるわけだ。日本文化が世界で愛されるのは昨日今日始まったことではなく長い歴史のもとに行われてきたのだ。ということは、この後に起きたやくざもののブームなんかもきっと海外に輸出されてそれなりのムーブメントが起きたのかもしれないなと想像する。そう考えれば日本は一定期間ごとに日本ブームを海外に巻き起こしていたのだからこれは凄いことだと思う。世界中を沸かせ続ける日本って一体・・・!韓流ブームなんかが世界的にみれば非常にローカルなムーブメントに終わった理由がよくわかろうというものだ。

しかし当時のスターさんというのは忙しいですな。超人的な仕事量をこなしている。雷蔵は一年間に12本も映画を撮ったというのだから、すさまじい量だ。毎月雷蔵の映画が封切られるのだから。今じゃ考えられない。毎月キムタクの映画やドラマなんて考えられないよなぁ。

雷蔵は儚げな感じを映画の画面の中では見せているが、その実像の一端が垣間見えて面白い。ただ儚げなのではなく、非常にまじめで将来の映画界を憂いていて、家庭においてはよき父親、夫であろうとした人なのだ。雷蔵の立体像を見た気がする本ですな。よきファンであろうとするならば読んでおくべき本であるかもしれませんぞ。

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May 03, 2007

弱法師

タイトルに惹かれて買った本だが、何と言うか・・・・すごい。

三島由紀夫の近代能楽集のように能に題材をとっている、小説だ。

3つの短編からなっている。表題の弱法師、卒塔婆小町、浮舟。僕が個人的に好きなのは卒塔婆小町だろうか。

能の卒塔婆小町のあらすじを押さえつつ小説としてきちんと完成されていて、素晴らしいと思った。特に編集者の愛を与えてやれない苦しさには涙してしまう。

はあ、なんだか凡庸な文章だ。本当に感動した時はなかなかうまくかけないものだ。

とにかく面白く、また切ない物語ばかりが収められた本だ。是非にも勧めたい。

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April 16, 2007

ペンギンの憂鬱

一読して思うことは訳者のあとがきにもあるように村上春樹を思い出させる風味を持った作品だということだ。さらに言えるのはロシア文学といえば重厚さを思い起こさせるがこの作品にはそんな姿はまったくない。ありていに言えば軽やかであり、キュートでさえあると思う。

主人公は売れない小説家だ。短編ばかりを書いていて、いつか長編を書いてみたいと願っているがこれまで長編小説を書いたためしがない。彼はペンギンと暮らしている。動物園から貰ってきたのだ。彼らは2DKのアパートで慎ましやかに暮らしているが、ある日主人公が新聞社から死んでもいない人々の追悼文を書くという仕事を頼まれたことから二人の生活は奇妙な歪みを見せ始める。

この作品を不条理と表現することはたやすい。しかし僕はこの作品は不条理という言葉で表現するほどにはたやすいものではないと思うのだ。

なんとなればこの作品には不安が満ちている。それは自己の存在の不安のみでなく愛してもいない他人と行っている家族ごっこ、親切にしてくれる友人の見送りにも行かないこと、老ペンギン博士の孤独な死。主人公を取り巻く人々はたくさんいて一見するとちっとも孤独ではないのに彼は孤独なのだ。主人公の周りにはたくさんの愛があるのに主人公はその愛を受容できない。受容すべき感覚の欠如がこの物語の核をなしていると思うのだがどうだろう。

またこの主人公は流れに任せてばかりの主人公だ。新聞社からの仕事の依頼にしても、幼い子を預かる羽目になったことも。ほとんどすべての事柄について彼が彼自身の決断で決めたことなどほとんどない。例外はベビーシッターを雇うと決めたことと、郊外に別荘を買うと決めたこと。もっとも別荘は買うことはなかったけれど。

流れに任せてばかりで主体性のなさが不気味な陰を引き寄せてしまう。生きている人間の追悼文を書く、そしてそれが何だかわからないうちに本当にその人物が死んでしまうというこの物語の最大の仕掛けは、主体性のなさがあって初めて成立するものだろう。そしてその問いかけは非常に重たいものかもしれない。なんとなればこの物語において主人公は自分の存在や安全を他人に預けているからだ。それはとりもなおさず生殺与奪の権を他人に預けているということに他ならない。そしてそれは主人公だけでなくこの物語を読んでいる読者たる我々も同じであるだろう。主人公は物語の最後、自分の追悼文を読みそこから逃れようとすべてを捨てて、南極行きの飛行機に乗り込むことになるのだが、主体性を取り戻すために文明の社会から逃れなければならないという皮肉な事実を暗示しているのだと僕は思うのだ。現代の病理の根深さを感じさせる。

なかなか味のある小説だと思う。この微妙な感覚はわからない人にはわからないと思う。そしておそらく2度目を読んだら、一度目とは随分違う印象を与える小説だろう。素直に面白いと思える小説だ。

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April 11, 2007

白鳥百合子写真集 リリーホワイト

以前に書いた記事を手違いで消してしまった。ショック!

どんなことが書いてあったかまったく思い出せない。仕方のないことです。

でも力作の写真集ですよ。きれいな我らが白鳥さんを堪能できる一冊です。

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November 21, 2006

書きあぐねている人のための小説入門

最初、本屋でこれを見かけレジにもっていった時になんでこんなの買っちゃったんだろうと思ったものだ。どうせよくある小説を書くためのHOW TOものなのだろうとタカをくくっていたのだ。

ところが実際に読み始めて驚いた、単なるHOW TOものなどではなくて、どちらかといえば小説を書くための心構えというか、或いはこの作者の小説観というかそういったものが書かれていた。一流の評論文を読んでいるような気分になった。

この本の帯には「小説を書くために本当に必要なことは?実作者が教える必ず書けるようになる小説作法」などとかかれているが、おそらくこの本を読んでも小説を書けるようにはならないだろう。それどころかこれをまねすると袋小路に入ってしまうような気がする。しかし実際に小説を書く人も、また、それを読む読書人にもこの本に書かれていることは有益なのではないか。なぜならばこの本には小説の技法は書かれていないけど、小説という芸術形式に対する深い洞察が書かれているからだ。

舐めてかかっていた僕が馬鹿だった。もう一度読み返さなくてはならない。自分自身を鍛えるために。小説という表現形式をもっと深く理解するために。

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November 18, 2006

残酷な子供グロテスクな大人

最近は自分のこれまでの趣味になかった本に手を出している。自分のこれまで知らなかった領域のことを知るという作業は実に面白い。なかなか自分の知識が追いついていかない面もあるが、それはそれで面白いと思う。

本書は春日武彦という精神科医が書いた本だ。専門書というわけではなく、随筆風な語り口で僕のような門外漢でもわかるようにはなっている。もっとも深く理解するにはそれなりの知識は必要なのでしょうが。

この本の特徴的なことは実際の事例を数多く採録するというより、文学作品を思考の糸口にしていることがほとんどであるということだ。また同じように作者自身のこれまでの生い立ちから感じたことを思考の糸口にしていることも多い。したがって精神医学的な本ではなく、非常に文学的で、良質の文学批評を読んでいる気分になる。

本書の中心的な課題はイノセントという言葉或いは概念についてであろう。イノセントという言葉から我々が受ける純粋さやひたむきさ、傷つきやすい心といったイメージはたぶんに誤解を含むものだということを作者は明らかにしていく。その過程は読者である僕にとって非常にいたたまれないものだった。特に第5章のU君とY女子のくだりは、僕に冷や汗をかかせた。なんとなればここに出てくるU君とY女子の特徴を自分もまた持っていると自覚しているからだ。まるで裸の自分を見せられるような恥ずかしさだった。僕もまた作者の指摘する「子供という病をおった大人」だったのだ。それは同時にイノセントというイメージを自分の都合のよいように利用する小狡い大人の一人だったという指摘でもある。

いやはや、この世にこんな本があるとは知らなかった。予想外なところで自分の自画像を見せられた気分だった。当分の間は再読したくないなと思わせるほどの作品だった。何事にも動じないタフな神経の持ち主に一読することをお奨めする。

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November 14, 2006

陽だまりのブラジリアン

第16回の朝日新人文学賞の受賞作品。

なかなか軽妙な文章を書く人ですな。この本の帯に小川洋子が書いているように細部の描写を積み重ねている、その描写力はまっとうに評価していいと思う。

そうではあるけれども、しかしと続けてしまいたくもなる。

というのも、物語の後半からやけに語り口が早いのである。ちょうどジョセリンのお兄さんが何故か警察に捕まるところぐらいから。このお兄さんは何のために出てきたんだろうと思う。どういうわけか出てきて何にもせず、いきなり警察に捕まってしまうのだ。よく考えたらなんのこっちゃわからない。この小説の決定的な欠陥はまさに後半部分、前半で蒔いた種を後半でろくに刈っていないところにあると思う。せっかく前半で丁寧な描写を重ねていたのに、後半でそれらを生かすことができず、急に色々なことが解決してしまう点にあると思う。要するに後半に向って、物語が深まっていないのだ。

まあ、そうは言いつつもそのような欠陥を補って余りあるほどの勢いというものがこの小説にはある。だから欠陥がそれ程気にならないし、なにより読んでいて楽しい娯楽作だ。

肩の凝らない、楽しい小説だ。生活に笑いが欲しいなという人にはお奨めの小説かもしれない。

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November 09, 2006

人間そっくり

僕がこの本を初めて読んだのは大学生の頃のことだから、10年近く前になるだろうか。ある先輩に勧められたのがきっかけだった。その当時どんな感想を持ったか細かいことはもはや覚えていない。今これを再読しての感想は鮮やかということにつきるだろうか?

恐らく難しく論じるならば、この作品の主題は自分で自分を認識するその基盤の脆弱さ、さらに言うならば、自己と他者の境界線の曖昧さということになるのだろうが、そんなことを吹き飛ばすほどの力のある作品だ。僕はこの作品を読んで日本刀の切れ味の鋭さを思い浮かべた。それくらい強烈な切れ味を持った作品だと思う。

物語は極めてシンプルだ。ラジオドラマを打ち切られそうになって切羽詰っている作家とどこにでもいそうなありふれたサラリーマン風の男。作中この二人以外ほとんど出てこない。ほとんどすべて会話で充たされていて、間違いなく地球人だと思っている作家が追い詰められ、やがて自分の存在に懐疑的になる。特にクライマックスの部分、作家がサラリーマン宅に行き、それまでサラリーマンがしゃべっていたことを、今度はサラリーマンの女房相手にそれを再現してみせる手管など鮮やかすぎて、読んでいる僕はぐうの音も出なかった。拍手さえしたい気分だった。

ぜひ一読することをお奨めしたい。案外これを読んでいる人全員火星人だったりして。そんなことを想像して、ニヒヒと笑ってしまう。

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November 05, 2006

黒い悪魔

佐藤賢一の佐藤賢一らしい小説といおうか。

佐藤賢一の小説の主人公というのはこうと決めたら誰が何をいってもいっても耳をかさない猪突猛進型で、だけど人好きがして、だけど本人は孤独でという主人公が多いような気がする。「双頭の鷲」の主人公がその才能を王に認められるのを幸福な例とするならば、この「黒い悪魔」の主人公はその才能を認められなかった不幸な例とすべきか。この小説の主人公は文豪デュマの父親だ。

時代はフランス革命の少し前から始まる。フランスの海外植民地、カリブ海に浮かぶ島、コーヒーのプランテーションの奴隷の子アレクサンドルは白人との混血児だ。アレクサンドルは他の奴隷とは違うと自負している。何となればアレクサンドルには買い戻し特約が付けられていて、いつか買い戻されて父に会えることを夢見ているからだ。父はこのコーヒー園の前の持ち主だったのだ。

こんな風にして物語は始まるのだが、時間と空間を一足飛びに飛んでいく佐藤賢一の構成に凝った作りは健在だ。初めて読む人にはとっつきにくいかもしれない。だが物語りはフランス革命が勃発し、やがてナポレオンの登場となり主人公は否応なく、巻き込まれていく。あまたの挫折を乗り越えていく姿は、一種のヒロイズムをも感じさせて痛快といえる。ロベスピエールの死刑執行シーンなどは虚実入り混じって読むものをニヤリとさせる。

佐藤作品の一つの特徴と言えるのではないかと僕は思っていることが一つあるのだが、それは肉親との深い断絶ではないかと思う。この小説の主人公は父親との関係に悩んでいる。肉親に認められたいという幼い頃の欲求を抱えたまま大人になり、どれほどの活躍をしても心が充たされないという心の飢餓感の源泉になっている。一見かっこよく颯爽としていてもこの飢餓感のために、主人公は次々に現れる困難をものともせずに突き進んでいく。それが読者をあっといわせるし、かつ悲しさや悲壮感を感じさせることにもなり物語に引き込まれてしまうのだ。この小説の主人公もそういった人物として造形されている。

しかし面白い小説だった。一気に読ませる小説だ。この感覚はたぶん男にしかわからないだろうと思う。女性がこの本を読んでどう言うだろうか?そんなことを思いながら読了した次第だ。

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November 03, 2006

思想の身体 愛の巻

率直に言って難しい。僕のような初学者には何を言っているのかさっぱりわからない。コンチクショウ!と思いながら読んだ。

巻頭の末木文美士の漱石の解説は正しいのだろうかと思った。僕は漱石はろくに読んだことがなくなんともいえないのだが。この論文はジェンダーを基礎にして漱石の作品群を時代順に解説しているのだが、なんとも気色悪いというか。この気色悪さはどこからくるのだろうと思いながら読んでいた。

たぶん、いや本当にたぶんなのだが、ジェンダーが捉える世界観というのは「闘争」なのではなかろうか。それは男と女の闘争で、比較的女のほうに肩入れをしているのではないだろうか。女性が時代時代によってどのように処遇されてきたかを考えることはけっしていけないことではないと思うのだが、闘争と捉えられると違和感を感じてしまうのだ。なぜなら現実世界の男と女は闘争ではないと僕は感じるのだ。僕の感覚では闘争ではなく戦友という感覚を持っている。両性にとっては時代とは常に世知辛いもので、その時代に生きていく男女としてはともに手を取り合い戦っていくしかないと思うのだ。当然その時代その時代によって与えられた役割は男と女によって違う。だがジェンダーというのは男を女にとっての壁と規定しているように思うのだ。本当の敵は時代なのに。ここらあたりのギャップを僕は気色悪いと感じているのだと思う。

まあ、なかなか難しい本です。続きを読むかどうかはまだ決めてませんが。

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June 04, 2006

佐賀のがばいばあちゃん

けっこう前に発売され売れた本だから知っている人も多いだろう。読みやすく一日で読めてしまう肩のこらない本だ。

文章の巧拙でいえばそれほどうまいものではあるまい、だが、一生懸命書いているのがよく伝わってくるものではある。

主人公は父と早くに死に別れ、母とは離れて暮らす少年だ。佐賀のばあちゃんの家に住むのだが、このばあちゃんが個性的だ。まさにこのばあちゃんの魅力で一冊の本が出来上がっている。

自然体で生きていく素晴らしさを訴えているのだろう。この本が売れたという事実はいまの日本に必要な要素が詰まっているということなのだろうと思う。

ま、そんなとこですな。

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April 17, 2006

平家物語

ここのところ仕事が忙しくなかなか本を読めないでいた。やはり年度末というのは忙しいものですね。そして仕事が一段落してから読み始めたのが平家物語であった。今回は岩波から出ている新日本古典文学大系の中の平家物語上・下を読んだ。

以前に僕は新潮社の日本古典集成に入っている平家を読んでいるのだが、今回は集成とは違う底本の平家を読んでみようと思ったのだ。

本文異同に関しては専門家の方に聞いて欲しい。集成で使われている底本とは確かに入っているエピソードやその順番、本文そのものが違っているのはわかったが、それを詳細に追跡するのはやはり専門家に任せたほうがいいだろう。ここでは深くは論じない。ただ集成と今回の新体系の印象の違いとして、僕は新体系の方がスマートに感じられた。洗練されているとでも言うのだろうか、集成は荒々しさが感じられるのだが、新体系は小奇麗さを感じる。僕の好みとしては新体系はスマートではあるがどこか物足りなく、集成の荒々しさのほうが好きなのだが。これは人によって好き好きなのだろう。

「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」とは新中納言知盛の壇ノ浦における最後の言葉であるが、この短いセリフに凝縮された自分に降りかかるすべての運命を厭うことなく受け入れ、抗うことをしない精神の強靭さは例えようもなく美しい。眼前で展開される一門の人々の入水は地獄絵図の何者でもないであろう。とりわけ一門の期待を一身に受けた安徳帝はわずか8歳の子供でしかなかった。そのような幼い者さえも死なせなければならなかった自らの罪深さを自覚しないではいれられなかっただろう。だからこそ新中納言知盛は運命に抗わないのだ。「見るべき程の事は見つ」とは自らの罪深さに対する罰なのだ。自らに降りかかる運命の全てを受け入れることが罪に対する唯一の贖罪なのだ。

暗愚と評される一門のリーダー宗盛の滑稽な姿を見よ。入水することをためらい、挙句の果てに後ろから兵士に突き飛ばされて海に落ちる彼はひたすら我が子に対する情愛に眼をふさがれた男だった。もちろんそれはそれで彼の姿はひどく人間的で好ましいものであり、憎むべき人物ではないのだが、彼は彼自身の罪深さに気づくことはない。自らに降りかかる運命から逃れようと必死なのだ。まわりの兵士がどう思っているかなど頓着しないのだ。そんな彼に回ってくる運命は壇ノ浦を生き延び、都を引き回され、頼朝という勝者に会わせられ、斬られるという惨めな役どころなのだ。

思えば平家物語に出てくる印象的な人々、源三位頼政、以仁王、木曽義仲、今井兼平、小宰相、瀬尾、これらの人々も自らの運命を抗わなかった人々だ。気高い精神性を保ち自らの人生の軌跡を自覚している人々ではなかったか?だからこそ彼らは美しいのだ。

そして彼らはすべて敗者である。敗者こそがすべての美しさを独占するのである。勝者が荒々しさを演じることはあっても決して美しさを備えないのは、運命を甘受する態度を備えていないからだろう。それは一門の滅亡を見ることなく、勝者のまま死んでいった清盛を見ればわかるだろう。勝者は敗者から美しさを奪うことができず、奪うことができないからこそ勝者は勝者でいられるのだ。

勝者とは美しい敗者の上に成り立つ存在なのである。

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March 13, 2006

ヨーロッパの乳房

作者の澁澤龍彦の名を知ったのはほとんど偶然だった。

彼が亡くなってしばらくたってから僕は大学進学のために上京したのだが、上京してすぐ池袋のデパートで彼の展覧会みたいなものをやっていた。彼の使っていた書斎を再現したりとか彼の生原稿だとかそういうものを展示していたのだ。僕はそれまで澁澤龍彦の名前さえも知らなかったが、その展覧会のポスターに惹かれて見に行ったのだ。随分と人が多かったのを覚えている。こんなにたくさんのファンがいるんだなぁと感心したものだ。展示品の中にフランス人形があったように記憶している。こういうものを好む男性というのはいったいどんな奴なんだろう?と思ったものだ。

以来、澁澤龍彦は気になる人であった。その間全集が発売され、話題になったりしたがなかなか読む機会がなく、とうとうここまできてしまった。澁澤の作品を読むのは今回がはじめてである。

さて、本書は紀行文である。1970年に初めて作者はヨーロッパ旅行に出かけるのだがそれについての文章である。はっきり言って前半はちっとも面白くない。面白いのは後半である。

前半の面白くなさは、読んでいる僕にも責任があるかもしれない。というのも前半の文章は知識が先行し全くついていけなかったからだ。後半は僕のような浅学の者でもついていけるように噛み砕かれた文章になって後半のほうが印象深い。

秀逸なのは「わたしの処女崇拝」と「自分の死を自分の手に」であろう。

「わたしの処女崇拝」は処女という一つの価値を論じたものだ。「女の性(セックス)とは、だから、欲望するところのものではなく、欲望されるところのものである」という原理に立脚し、「ウェヌス原型」という言葉を用いながら処女の神聖がどこからやってくるかについて述べている。処女について僕は単に肉欲的なイメージでしか捉えていなかったから、この評論は驚きであった。処女に対する人間の非常に深く、また、太古の記憶からやってくる畏怖の感情があるというのは、今まで考えてもみなかった新鮮な考えであった。新しい目を見開かされた。

「自分の死を自分の手に」は機知に飛んだ小説である。従来からある生命保険に変わって安楽死保険というものを売りに来るセールスマンと主人公の会話録である。現代社会のモラルを生命保険という言葉に託してそのモラルに懐疑の思いをこめて、安楽死保険というあべこべなものを提出している。自分の死さえもままならない現代の社会の現状を「ブルジョワ的道徳」ということばであらわしているが、この考え方に頷けないこともない。個人主義の時代といわれて久しいが、この個人主義の時代は案外窮屈であることも確かだ。個人主義とは言いつつも誰かが作ったシステムに依存しなければ生きることすらままならない。日常の食事だってスーパーやコンビニといった誰かが作ったシステムに依存しなければならないのだから。個人主義とは本当に個人主義なのだろうか?

安楽死保険は生きたいように生きるという人間のささやかな希望の比喩なのではあるまいか?窮屈なシステムに絡めとられた人間の解放を意味しているのではなかろうか?僕はそんな風に思ったのだがどうだろう?

初めての澁澤龍彦体験であったが、知的興奮を換気させる人物であるかもしれない。これ以外にもいくつか読んでみたいと思った。

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March 07, 2006

マオ 誰も知らなかった毛沢東 上下

ねえ、聞いてよ

ねえ、聞いてよ

僕は怪物を見たよ

僕は怪物を見たよ

驚いたことにこの怪物は赤い衣さえもまとってはいなかったんだよ!

本書は中国に誕生した怪物の一代記である。僕はこの上下巻に及ぶ長い、長い物語を読んでたった一つの感想しかもてなかった。

「えげつない」

これだけである。ページをめくるたびに死人の山が築かれていくような錯覚にとらわれざるを得ない。これほどまでに人命が軽んぜられる国家とは一体何なのだろうか?しかもこれが意味のある死ならばまだしも、権力者による自己保身の招いた死なのだからやりきれない思いがする。

本書に描かれる怪物と怪物を支えた権力機構の本質を著者はたった一行で表している。

「共産党による統治はつねに殺人を続けていかないと不可能であることが明らかになり、すぐに処刑が再開された」(上 P187)

戦慄すべき一文ではないか。殺人を必要とする統治とはなんなのだ?それは統治とよべるのだろうか?

共産主義思想を核にしてこの政権は誕生したと僕は単純に思っていた。当然イデオロギーに基いた政策が実施されたものだと僕は単純に思っていた。たとえその政策が失敗したとしても、何らかの筋は通っているものだと思っていた。政治に携わる者は自らの理想とするイデオロギーの実現に向けて努力しているものだとばかり思っていた。しかし読めども読めどもちっともイデオロギーの話は出てこない。出てくるのは権力闘争と自己保身と栄達の話ばかりだ。理想に燃える人間など一人もいないかのように。あのイデオロギー全盛の時代はなんだったのだろう?イデオロギーは人間の欲望を糊塗するただの衣ではなかったか。人間は時代が進めば進むほど賢くなるのではなく、自らの欲望を何かに見せかける嘘がうまくなっただけではないのだろうか。そんな気持ちをこの醜悪な怪物から受けた。

読了して最初に思いを馳せたのは、現在の中国だ。これだけの大混乱を引き起こし、天文学的な人命を失わせたこの怪物を現在の中国では未だ建国の父として敬っている気持ちの悪さに僕はおぞ気がする。何となれば、この建国の父の神話は壮大なフィクションなのだ。そのフィクションの中に国民を閉じ込めようとする現在の政権を担う人々のあざとさに僕はあきれるほかない。フィクションは所詮フィクションにすぎないというのに。

本書は議論かまびすしいものでもある。専門の人々から本書の掘り起こした新事実に疑義が寄せられているようだ。僕は歴史家でもなければ、政治学徒でもなく、思想家でもないため真偽を論ずることはできない。多少割り引いてこの本と付き合うことが必要になろう。唯一つだけいえるのは国家とはなにか、あるいは国家の欺瞞が国民に何をもたらすのかということを考えるきっかけになるのではないかと思う。

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February 24, 2006

白洲次郎 占領を背負った男

読みたい読みたいと思いながらなかなか読めなかった本だ。だがよくよく考えるとなぜ読みたいと熱望したのか、まったく思い出せない。

思い出せないといえば本作の主人公白洲次郎を僕がどうしやって知ったのかも思い出せない。なにかの雑誌の記事で読んだのだろうが、それが全く思い出せないのだ。

というわけで読んでみた。奥さんである正子はエッセイストで知られているし、僕もそれくらいは知っている。

一読して思ったことは何とも形容しがたい人だということだった。間違いなく政治家ではない。官僚でもなければ、財界人でもない。いわゆるジャンルに当てはまらない人。それが白洲次郎だ。どうでもいいがどうやって収入を得ていたんだろう、この人?

本書の中で圧巻だったのは憲法制定の舞台裏だろう。アメリカに押し付けられた憲法であり、非常に短期間で製作されたものであることは知ってはいたが、ここまでひどい成立過程をたどっていたとは正直驚きだった。その渦中にいた次郎をはじめとした日本人のきもちはいかばかりか。確かに戦争には負けたけれども、国家の根幹さえも自由にいじくられるというのははなはだ気分が悪い。この憲法を改正できていない子孫である我々は、当時の人々にどんな顔をすればいいのだろうか?

プリンシプルという言葉を初めて知った。日本語に直せば原則というものになるようだが、もっと深い言葉であるように思う。

先日ホリエモンが逮捕されて話題になったが、おそらく彼はプリンシプルからはもっとも遠い男ではなかろうか。プリンシプルという言葉は原則を通すことによって生み出される気品というものを含めた言葉であると思う。思えばホリエモンに最も欠けていたのはこの気品であったと思う。

次郎はこの言葉をモットーに生きていた。ダンディと形容されることが多かったようだがそれは恐らく気品があったればこその事なんだろうと僕は思う。

今ではかなわぬことだが、一度くらい話してみたいと思う人物だ。

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February 20, 2006

国家の品格

タイトルがいかついので難しい内容の本なのかなぁと思っていたのだがそんなことはない。わずか数時間で読み終えてしまった。

本書の主張を一言で表すならば、「過去の日本の姿を取り戻せ」ということになると思う。武士道を中核とした日本に伝わる精神性(本書の中では情緒と形と表現しているが)が今世界中に蔓延する文明病を救うと考えている。

著者は欧米の文化文明とは論理で築き上げた文化であると断じている。先進国に共通する病理つまり伝統を軽んじ、歴史を振り返らない態度は、人工的に作られた知の体系を重視しその国に独自に伝わる国柄というものを破壊してしまった。90年代から怪物のように暴れまわっている、グローバリーゼーションが効率を追求し最も経済的なシステムを提供しているかのように見えるが、それは世界を均一化しグローバリーゼーションを提唱するアメリカ化をもたらす。ゆえにその国の国柄を破壊し尽くしてしまい、その国の国民が力を失っていくと論じている。

なるほどこの辺りの主張は日本の読者には気持ちのいいものだろう。

この著者の個性的なことは、論理という知の体系、言い換えれば科学というものに全幅の信頼を置いているわけではないということだろう。著者自身が科学者であるにもかかわらず。

著者は論理の重要さは認めつつも、論理そのものに懐疑の目を向けている。あまりに人工的で非人間的だと考えているのだろう。読者にはこの主張は衝撃的な感情でもって迎えられるのだろうが、しかしよくよく考えればこの主張は目新しいものではないかもしれない。

というのも我々は科学の破綻を既に見てきて、歴史的事実としてよく承知しているからだ。例えば経済発展に伴う数々の公害病、地球の環境破壊、核兵器の大量保有による平和。科学とは論理そのものの学問であり、その科学が人間に災厄をもたらしたのだ。

人文科学といってもいい、社会科学と言ってもいい、我々の社会に深く根付いた論理とはこの科学に似せて作ったものなのだ。我々が論理に酔ってしまうのは論理が科学のように見えるからなのだろう。我々は科学が必ずしも人間に幸福をもたらしてくれるとは限らないということをよく知っているくせに、そして科学技術の発展に警戒感を持っている(たとえばクローン技術とか)くせに、社会に蔓延する論理=科学に無条件の帰依をしている。それは滑稽と断ぜざるを得ない。著者はそのことに意識的か無意識的か気付いている。

著者が武士道を梃子にして情緒と形と表現する日本の古来の姿、いうなれば原日本に立ち返れと主張することは面白いと思う。科学の破綻が起きたとき、科学は新しい科学を創造するのではなく、調和を目指して動いていた。社会に巣食う論理に対し、新しい論理を創造するのではなく、原日本に立ち返ることで調和を目指すというのは意義深いことなのではないだろうか?

賛否両論あるだろうが、論理に対する態度を学ぶ上ではこの上なく質の高い良書と呼べるのではないだろうか。一読することをお奨めする。

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February 17, 2006

語られなかった皇族たちの真実

ゲームの合間、合間に細切れに読んだので、かなり変則的に読んでしまった。本当はきっちりとやっていきたかったのだが。

この本は昨今話題の皇室典範改正問題に焦点を絞っただけの本ではない。むしろそれ以外のことに多くの紙面を割いている。

具体的に言えば、戦前、戦中、戦後の様々な皇族たちの生き方を通して日本における天皇制とは何か?ということを述べた本であるといえる。

最も印象的なのは、開戦までの動きの中で、和平に力をつくした高松宮のことだろう。当時皇族の中でも対米戦は推進派と批判派に別れていたらしい。しかも戦前の男子皇族というのは明治天皇の考えもあって、伝統的に全員が軍人であったから軍のかなり高度な情報を知ることのできる立場にあったらしい。

またいざ終戦が決まり、前線に天皇の聖旨を伝達に行くことも興味深かった。よく日本のポツダム宣言受諾後の武装解除がスムーズに行ったということが言われるが、その裏には皇族たちの命を掛けた任務があったというのはもう少し、たくさんの人が知っていて言い事実なのではないだろうか?過小評価してはいけない事実ではないかと思う。

さて男系か女系かという議論であるが、作者は明確に男系を支持している。伝統という言葉でこの考えを議論しているが、現代のクールな国民にこの伝統という言葉が果たして通じるかと思う。巧妙な論理を持つ意見でないと誰も振り向かない。そんな風に思った。

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December 31, 2005

2005年映画・書籍ランキング

2005年も今日で最後である。ちょうどいい機会だから今年目にした映画、および書籍のランキングなどを書いてみたいと思う。あくまで僕が見たものの範囲で選ぶので、何であれが入ってないの?とかランキングから洩れてる!とかいろいろおっしゃりたい方はいるであろうがあくまでも僕の独断と偏見で選んでいるので許して欲しい。ベスト5位までを選んだのでこの正月DVDでも見ようかな、本でも読もうかなという人は一つの参考にしてみてはいかがでしょうか。

ところで今回の記事でちょうど100本目となる。3月31日にこのブログを始めてよく途切れなかったものだと自分でも感心してしまう。今まで12086人の方が読んでくださった。ありがとうございました。

書籍

1位 博士の愛した数式 小川洋子

2位 雨恋 松尾由美

3位 バッテリー あさのあつこ

4位 ミカドの肖像 猪瀬直樹

5位 龍樹 空の論理と菩薩の道 瓜生津隆真

今年は上下巻本も含めれば22冊読みました。決して多いわけではない中から以上の5冊を選んだ。僕は買ってきた本は2回読むことにしているので、冊数はあまり多いほうではない。

1位の博士の愛した数式は文句なく完成度が高い。何度読んでも泣けるだろう。多くの人に勧めたい本だ。

2位の雨恋はミステリーとしての完成度は高いほうではないのかもしれないが、幻想的な美しさを備えた作品である。いつか映像作品になるのではないかと思っているのだがどうだろう?

3位のバッテリーは少年の成長過程を通して友情や家族の関係、悩み、孤独感が描かれている。大人になっても心が熱くなる作品である。

4位はタイムリーな話題の時に出されたものだ。しかし近代天皇制の本質に迫ろうとしている作品であり、衝撃的事実に何度も直面する本である。ぜひ読んでいただきたい。5位は仏教を完成の域にまで高めた僧侶の理論と生涯である。難解な論理ではあるのだが、絶対に征服してやろうと思わせるものである。

映画

今年は30本の映画を見た。実際の配収はどうだか知らないが、質としては珍しく洋画のほうが低調で邦画のほうが高かった。話題作も多く、スターウォーズ、NANA、電車男、宇宙戦争、亡国のイージスなどがあった。ハリウッドが何を題材としていいのかわからないという、悩みがよく現れた一年ではなかっただろうか?なんにせよ日本の映画ファンには邦画の勢いを取り戻したという事実は実りの多い一年であったには違いない。

洋画

1位 チャーリーとチョコレート工場

2位 コープス・ブライド

3位 オペラ座の怪人

4位 大いなる休暇

5位 宇宙戦争

選ぶのに苦労した全体的にレベルが低い。5位の宇宙戦争など入れるべきではないと思うのだが、他に選びようがなかったので選んでしまった。

1位、2位はティム・バートン&ジョニー・デップ作品である。1年の間にこのコンビの作品が2本も見られるのは幸せなことだ。僕は今年の主演賞はジョニー・デップにあげたいのだが。ちなみに助演賞にはチョコレート工場に出てきた、インド人のちっちゃいおっさんにあげたい。

3位は豪華絢爛さが売りの作品。チャーンチャラチャラチャーンが耳から離れない。

4位は有名スターがまったく出ていないにもかかわらず実に味わい深い作品である。カナダのフランス語圏の映画だ。ぜひぜひ見ていただきたい作品である。

邦画

1位 電車男

2位 ALWAYS 3丁目の夕日

3位 男たちの大和

4位 いらっしゃいませ患者さま

5位 妖怪大戦争

逆に邦画は選ぶのに苦労した。ここには出ていない阿修羅城の瞳、タッチ、春の雪、NANA、鳶がクルリとなどはぜひとも入れたかった。

1位は秋葉原のキスシーンが美しかった。そして日本中の男がエルメスに理想の女性像を見たのではあるまいか?また、ネットという文字で表現される空間を映像にしたという表現形式の苦労も評価すべきであると思う。

2位は一位と甲乙付けがたい。本当に良い出来で脱帽した。笑いと感動が合わさり、他のお客さんと味わったあの幸福な時間を僕は忘れまい。ロクちゃんをやった堀北真希に新人賞である。

3位は現在公開中の映画。自分が日本人であることを再認識させてくれる作品。東映らしいスケールの大きな作品であるともいえる。中村獅童の怪演に主演賞をあげたい。反町も良かった。

4位はアイディアの面白さを買った。もう少し遊んでもいいような気もしたが、それでも面白い作品であることに間違いはない。

5位は子供が見る作品であるにもかかわらず、ちっとも子供におもねらない作風が良かった。また役者の個性がこれほど光る作品もなかった。トヨエツ、ナイナイの岡村さん、栗山千明どれも素晴らしかったが、なんといっても菅原文太。あれほど生き生きして「小豆は体にええどぉー」と叫んでいる姿に驚いてしまった。主演の神木君も将来の豊かさを感じさせ、楽しみな存在である。

来年もたくさん本と映画に触れたいですな。やっぱりこういうものに触れるのはいいもんです。

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November 16, 2005

蝉しぐれ 原作本

原作を読む前に映画は見るのはあまりいいことではないのかも知れない。たとえそのようにしても、映画を見てからかなりの時間を空けてから原作を読んだほうがいい。というのも既視感が邪魔をしてなかなか小説に没頭できなかったからだ。

さて読後感だが、これは青春小説と呼んでいいのだろうと思う。若者の失望、鬱屈した思い、淡い初恋がべとつかない文章でつづられている。

よくよく考えてみれば僕は藤沢周平を初めて読んだ。

僕自身の感想を言えば、あまりピンと来る感じじゃなかった。どうしてなのか不思議なのだが、ピンとこなかった。既視感が邪魔をしたのだろうか?それともべとつかない文章を味気ないと思ったのだろうか?一つだけいえるのは、青春時代は遠くになったなぁということだ。その距離の遠さが、ぼくに小説のリアリティを感受する受容体を失わせたのではないかと思う。リストに加えた点数も辛いものにしてしまった。この小説を読むべき資格を僕は失ったのかもしれない。

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November 09, 2005

地図とあらすじで読むブッダの教え

日本人なら一度は思ったことがあるはずだ。仏教ってなんだ?
その疑問に答えを与えてくれるわけではないが入り口に立たせてくれる本かもしれない。本書は二段構成になっており、一つはブッダの生涯を誕生から入滅までを描いている。もう一つは仏教の教義についてだ。
各テーマをざっくりという感じで解説しているからちょっと物足りないし、何よりわかったようなわからなかったような、そんな印象を受ける。
初学者の僕にはこんな感じでいいのかな、って感じの内容とボリュームだった。
もう少しいろいろ勉強したいと思った次第だ。

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November 07, 2005

攻撃と殺人の精神分析

難しい本だった。精神医学とか心理学とかの専門書であり、おそらくそういった方面を目指す人の入門書的な位置付けなのだろう。そういったことに全く素養のない僕にはなかなか敷居の高い本である。
さて本書は連続殺人犯、親殺し、子殺し、大量殺人といった犯罪の背景を追及しているのだが全てに共通しているのはエディプス・コンプレックスというものであるらしい。これは父に対する距離感のことだと僕は解釈したが、原父と表現され圧倒的な父の支配から逃れようとする息子が父に復讐するが復讐の成功により息子が自分がなした行為に罪責感を感じることらしい。本書に示される殺人の背景にはエディプス・コンプレックスから派生する母への感情、理想像とする母の拒絶や希求というのがあるらしい。よくわからないが母という軸が特に男には非常に大切になるらしい。
この本を読んで背筋が寒くなるのは母の存在がいかに大きいかということなのだ。母に対する性的な欲望を僕ら男は皆持っているらしい。これは衝撃的な内容だった。俺にもそんなのがあるのか?思い当たる節が無いではないと思う。それを真っ正面から指摘されることの居心地の悪さはどうだろう?興味深い本である。

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October 18, 2005

となり町戦争

とまどいと怒りを覚えた小説だった。何とも言えず気分の悪い小説だと思う。

戦争を経験していない僕らの戦争に対するステレオタイプ的な発想を逆手に取った小説だといえるだろう。開戦も終戦も知らぬ間に起こり、全体としていつどのように戦っているかさっぱりわからないという設定は、平和ボケといわれる日本国民にとって案外しっくり行くのかもしれない。戦争に関する猛烈なリアリティのなさがこの小説を成立させる空間を作り出しているといえよう。

この小説では兵士が死んでいく場面は描かれていない。というよりも、この小説に顕著な特徴は主人公は「戦争とは人が死ぬ」という一点にリアリティを求めようとしているところにある。「戦争とは人が死ぬ」というあまりに単純化、図式化された問題意識が全体を貫徹し、日常=平和と、非日常=戦争が溶解し、その境目を掴むことのできない主人公がふわふわと浮遊している。戦争に対するリアルな感情を抱けず、定型化された戦争に対するイメージが、小説中で展開される”リアルな事件”を通して対比され、抉り出され、揺れていく。しかし主人公は最後までリアルな感覚を掴むことなく、結局は「戦争とは人が死ぬ」という単純かつ図式化された問題意識から抜け出すことはできない。主人公が得たリアルとは戦争遂行を任された香西さんという女性公務員に対する愛情だけであった。これは日本人の戦争に対する認識の限界を示した小説だといえるかもしれない。

「だが」と呟いてみたくなる。本当に日本国民は戦争に対してリアリティを持っていないのだろうか?いやいや、「戦争とは人が死ぬ」ということだけが戦争の問題意識なのだろうか?

ちょっと今日における日本をめぐる国際情勢を考えてみればいい。「戦争とは人が死ぬ」という単純な認識をしている日本人は今やほとんどいなくなったのではないか?イラクを見ればいい。ブッシュによって戦争に引きずり込まれたこの国は一体今後どのようになっていくか?中国との摩擦を考えてみればいい。東シナ海におけるガス田開発はどうだ?台湾海峡は?靖国は?おそらく多くの日本人は社会党全盛なりし頃の平和主義に懐疑的でありまさに「リアル」に戦争の危機を感じ取っているのではないか。「戦争とは人が死ぬ」という問題意識だけで戦争を捉えるならば、今日的な日本人の危機意識を説明しつくすことはできない。いやむしろ「戦争とは人が死ぬ」という問題意識こそ現在の日本人が懐疑的になっている平和主義の代表的問題意識であり、絶対平和主義と揶揄される武力を徹底的に排除するという解に導きやすい問題提起としてまさに疑われているのではないか?

時代認識が少し古いと思う。十年前ならこの小説は鮮やかな光芒を放ったろうに。僕はこの小説を「遅れてきた小説」と呼びたい。

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October 10, 2005

六番目の小夜子

つまらくはない作品ではあるが、どうなんだ?著者もあとがきで語っているように日本ファンタジーノベル大賞で酷評されたというがそれもなんだかうなずける感じだ。

根本的にこの作品の最大の謎はサヨコって何だ?というところにあると思うのだが、それに対して作者は裏で糸を引いていた人物を提示するものの、はっきりそれがなんであるかは語っていない。あくまで匂わすだけなのだ。僕個人の好みもあるのだが、謎を完全に解決してくれないと不完全燃焼になってしまう。匂わすというのは読者に対してアンフェアーな行為だと思うのだがどうだろう?

どんな小説にせよ謎の設定と解決は意外と重要なものなのだ。なぜなら、そこに著者の主張が最も色濃く反映されるからだ。テーマといっても良い。それを匂わすだけで終わらせるというのはテーマや主張を見えなくする。読後感がどうもしっくりこない、カタルシスがないなぁと感じるのははっきりとしない謎に主張やテーマを見出すことができないところから来ていると思う。

また、高校生達の会話にイライラ感が募った。突然敬語調になったりして、リズムが狂ってしまう。会話はキャラクターの個性を引き出す最も簡便な方法だと僕は思っているのだが、それに敬語を含ませると個性を覆い隠してしまう。作者はあえて軽妙な感じを狙ってやったと思うのだが、成功しているようには思えない。

解説で川と時間軸について解説子は述べていたがこれについてはこの著者の作品をたくさん読まないとちょっとわかりずらいと思った。これから僕もこの作者の作品を意識的にフォローしていきたいと思う。

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September 19, 2005

がんばっていきまっしょい

最近になってフジ系でドラマ化された作品。といっても僕はこのドラマを見ていない。僕が見たのは映画のほうだ。そう、田中麗奈のあれである。

この作品は実際には2編収められている。一つは表題の「がんばっていきまっしょい」。もう一つはその続編とも言うべき「イージー・オール」である。がんばっていきまっしょいのほうが琵琶湖への道だとしたならば、イージー・オールはその琵琶湖そものである。琵琶湖とは全国大会である。

感想の前に技術的なことを一つ。紙数の制限があったのだろうが、ボートの解説がちょっと粗雑だ。もう少し説明が欲しいところだ。こういうところをおろそかにすると先に読み進むのがちょっと苦しくなってしまう。特に一般にはあまり知られていない世界のことを描くなら基本設定にかかわることなので大事にしてもらいたいなと思う。(それにこういう説明の文っていうのは案外読んじゃうものですよ。知らない世界を知るというのは楽しいからね)

さて、とくにがんばっていきまっしょいのほうに顕著であるが、悩める高校生の生な姿が描かれていた。ゆえに時代が隔たっているにもかかわらず、普遍性を保っているように感じられた。とくに主人公がボートを「発見」するまでの心のありようは誰にでも共感できるものではないか。主人公は入学早々落ちこぼれてしまう。理想とする姿になりたいと考えるが、そもそも理想そのものが主人公には掴めていない。できのいい姉がいるがその姉の描写は少ない。主人公にとっては姉は理想でもなんでもなく、とんでもなくすげえ奴だったんだなとだけ思うのだ。ゆえにこの作品においては姉は主人公の単純な比較対照ではないのだ。

数ある部活から選んだのはボートなわけであるが、主人公は入学前の半日の家出で海に浮かぶボートを見て「ボートってなんかいいな」と思うのがきかっけである。たとえ女子のボート部がなくても彼女は作ってしまう。それは僕の目にはワンアイディアにすがりつくような感じに見えた。飛び切りのアイディアを思いついてそれを実行していこうという姿は現状に喘いでいる主人公にとってとても大切なことなのだろうと思う。だからこそ苦労して部員集めをするのだ。滑稽に見えないこともないが、しかしそれだけでは語りつくせないことがある。現状を変えるというのはまさにそういうパワーに依拠しなければ成し遂げられないことなのではないか。僕は彼女の姿を笑えないと思った。僕の高校時代はまさに喘いでいたのだから。

しかし作ってみたものの新人戦で惨敗するまで主人公達は本気にはならない。本気になるのは「お嬢さんクルーに負けんな」と他校の生徒に言われてからである。ここに本質が隠れているのではないかと思う。主人公は女子ボート部という器を作ったに過ぎないのだ。だからこそ主人公は現状への喘ぎが止まらないのだ。器には何も価値はないということか。あるいは仏を作っても魂が入らないと意味がないというべきか。主人公達は本気になって練習に打ち込み、今までいなかったコーチをOB・OGに頼み、器に水を注いで、魂を入れるのだ。

がんばっていきまっしょいはそんなふうな若い高校生の成長物語である。それは同時に友情の物語になってもいる。仲間がいなければ基本的に何も出来ないナックルという競技においては必然のことであろう。僕はこの部分は「スタンドバイミー」を思い出していた。うろ覚えですまないが、この「スタンドバイミー」に影響されてジョディー・フォスターだかメリル・ストリープが女の友情を描いた映画作品を作っていたように思う。このがんばっていきまっしょいはその作品をはるかに抜き高い品質を保っている。なかなか読ませる作品だ。

お奨め作品だ。特に僕のように高校時代がはるか遠くになってしまった人間にとっては気恥ずかしく、同時に胸が熱くなる作品だ。ぜひ年取った人に読んでもらいたい作品である。

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September 11, 2005

雨月物語 癇癖談

いわずと知れた上田秋成の有名作品である。新潮日本古典集成の中の一冊である。

これを読むのに途中病気をしたり、時間が取れなかったリで結局丸一月も掛ってしまった。もう少し早く読み終えておきたかった。

さて感想だが、よく雨月物語は怪談であるというような言われ方をするが、別にこれを読んだからといって夜眠れなくなるとかそういうことはない。現代とあまりに時間が隔たっているからなのだろうか?

この上田秋成という人の文章を読んで驚いたのがその文体の格調の高さである。以前滝沢(曲亭)馬琴の南総里見八犬伝を読んだが、雲泥の差である。秋成の文章は美しい。

その美しさで書くこの雨月物語のなかで僕は一番印象に残っているのは「青頭巾」である。美少年への妄執に駆られた僧侶が人肉を食らい、鬼となる。それを快庵という別の僧が成仏させる話であるが、その迫力ある描写に圧倒された。この描写は細身の筋肉質の俊敏に動く動物を思わせ、一切無駄のない美しさを持つ作品だ。江戸時代という時代に対する印象を変えるような衝撃力を持っている。この時代にこんな作品を書ける人がいたとは恐れ入る。

さて、癇癖談だがこれで「くせものがたり」と読む。秋成晩年の作品であるらしく、文明批評となっている。

僕はこの手の文章が嫌いなのだが一応我慢して読んでみたが、やっぱり嫌いだ。同時代への容赦ない批評は現代に通じるところもあるのかもしれないが、いかんせん疲れる。また、作者の主観に完璧に乗ることができない僕の性格から言って、この文章は「本当にそうなのかな?」と懐疑的になってしまう。特に遊女についての批評など、僕は受け付けなかった。僕はソープランドだって行くような男だ。遊女に対してどちらかといえば尊敬の念すら抱いているから秋成の時に辛口な批評は僕は好きになれない。ま、そういう辛口な批評を敢えて行えるところが秋成の偉いところなんでしょうけれども・・・・・・。

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August 07, 2005

電車男 原作版

映画を見て、テレビを見て、原作を読むという全くの逆コースをたどった電車男ではあった。

まとめのサイトを読んだ後に原作本を読んだので、新鮮さはなかった。というのもあのまとめのサイトと内容はほとんど変わっていないように思う。最後の章は原作本に付けられた特典だったのだろう。ここでエルメスが電車男の来歴と自分との付き合いの歴史を知るというのはなかなか面白いと思った。楽屋話というのはそれなりに面白いものなのだ。

この作品については映画版でも、テレビ版でも感想を述べてきたし、いまさらとやかく言うつもりはないが、いくつかの点で述べさせてもらうとすれば、紙とコンピューターと大衆との関係だろう。

ネットというものが進歩してあらゆる情報の送受信が可能になったのは今さら語る必要もないくらいだ。この電車男の話もそういった技術の向上があってこそうまれたものだと思う。多くの人が熱狂し、2ちゃんねるに集まり盛り上がったという事実はネット社会の深化の度合いを測る上で非常に大切な出来事なのではないかと思う。

しかし、僕は思うのだが、電車男が爆発的に支持されたのがいつだったのかということを考えると、それは書籍になってからだと思う。愛すべき我らが電車男は書籍にならなければ一部の人々にのみ共有される伝説でしかなかったのだ!ネットが駆逐できるだろうと思われていた既存メディアの力がなければ電車男は圧倒的な支持を受けることがなかったのだ。

よく言われるようにコンピューターを持つ人と持たない人の情報の格差ということを僕は言いたいのではない。電車男を書籍で読んだ多くの読者は若い人が多かったのではないかと思う。その多くの若い人は自前のPCを持ち、それを扱う能力も意欲もある人々ではないのか。その多くの若い人は電車男の存在を知らなかった、現に僕も書籍化されるまで知らなかったのだ。

情報格差があるのではない。情報に中央と地方の問題があるのだ。ネットでは自分の興味のあるものしか見ない。またその範囲はおそらく極端に狭い。電車男の書籍化は本来自分が持っている興味には引っかからないが、それに隣接するような興味だったのだろう。或いは、興味があったとしても、なんらかの理由で検索には引っかかってこなかったということなのだろう。

また情報の中央と地方はどこが中央だとはっきりとわかるものがない。しかも中央は動く可能性がある。ある時期にはここが中央であるかもしれないが、また別に時期にはあそこが中央になっているかもしれない。したがって自分が今読んでいる掲示板なりHPなり、ブログなリが全体のどこに位置しているのかわからなくなっている。自分の寄って立つ位置がまったくわからないでネットを楽しんでいるのだ。今回の電車男の書籍化の持つ意味は、他メディアの中に電車男を投げ込むことによってそれが一体なんなのか、という位置づけを行うことができたことにあると思う。

話題になった8チャンネルの買収騒動で、渦中の主役の一人は既存のメディアは今までと同じことをしていたら滅ぶとか、ネットの情報量、スピードにはかなわないと言っていたように記憶しているが、僕の目にはこの男がおかしくて仕方ない。既存メディアの情報の伝播力というのはネット社会がどれほど進化しようともかなわないのだ。そしてその伝播力は情報を位置づけるという力まで持っている。それは情報のスタンダードの提示ということになるのではないか。そして僕らはその提示を必要としているのではないか?そのことがちゃんとわかっているのだろうか?わからないとすればこの男は愚か者として断罪するしかないように思う。既存メディアは今でも情報の王様であるし、これからもそうであるのだ。

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July 24, 2005

バッテリーⅢ

たかが中学生の野球の物語にここまではまるとは意外だった。

陰湿ないじめの結果野球部が休部している所から話が始まる。

この陰湿な先輩からの嫌がらせというのがちょっと古い感じがしたのだけれども、あまり気にならないくらい読み進めることができる。

なにがこんなに面白いのだろうか?

キャラが立っているのは確かだろう。特に巧というキャラクターはまわりを巻き込まずにはいられないキャラとして作られている。それは矢口監督のウォーターボーイズの主人公とは正反対のキャラだろう。そしてキャッチャーの豪は天才に対峙する普通の人という関係になるのだろうか?この関係が読者の感情移入を容易にしているのだろう。

もっともそれだけではこの作品の魅力を説明したことにはならないなぁ・・・・・。なんといって説明すればこの作品を読んだ僕の気持ちを表現できるのだろうか?なかなか難しく、それだけに面白い作品だと思う。

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July 18, 2005

バッテリーⅡ

30歳を過ぎてこの小説にはまるのだから僕の感性はそんなに年を取っていないのかななんて思う。

バッテリーⅡである。

巧の過剰な自信が上級生の陰湿ないじめに繋がっていくというのがこの第2巻の物語なのだが、面白すぎてどんな感想を書いていいかわからない。情けない話だ。

一つだけ思ったのは子供と大人の関係だ。野球部顧問のオトムライはかなり管理の厳しい先生だ。ちょっと古いタイプに描かれているような気がするが、しかしそれでもこれは様々なことを含んでいるような気がしてならない。

このオトムライは生徒を上からギシギシと押さえつけるように描かれている。そしてそのことに自信を持っていて、なおかつ、生徒をよく把握していると考えている。しかし陰湿ないじめが発覚してそれは崩れ去る。崩れ去った後のオトムライが出てこないからなんともいえないが、大人が子供を把握するのは何と難しいことだろうかと思った。本当にその子が何を考えているのか理解するのは非常に難しいと思う。

何を言っているんだか。何だか月並みな感想だな。だから生徒の自主性を重んじてなんて書きそうでこわい。そんなことが書きたいのではなく、子供を把握してやろうという傲慢な態度ではなかなかうまくないということが言いたいのかな?僕は・・・・・。

そうじゃないなぁ。なんだか書くのは難しい。書くのが難しいほど面白い小説なのだ。もしこのブログを読む機会がある人はこの小説読んでみてください。で、感想聞かせてください。

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July 11, 2005

バッテリー

シリーズ物の第1巻。

ここで言うバッテリーとは野球のバッテリーのこと。車じゃありませんな。

天才にしてとんでもなく高いプライドを持ったピッチャー巧をめぐる話なのだが面白い。

彼の一家はお父さんの転勤で春休みに岡山の新田という町に引っ越してくるのだが、この1巻で描かれる話はその引越し当日から、数日間、まだ学校にも野球部にも参加していないところまでの非常に短い期間の物語でしかないのに、非常に濃密な物語になっている。なんかワクワクしちゃう小説だ。

巧という主人公は天才で、天才であるがゆえに傲慢で人の気持ちを解さないかわりに、人にも自分を解さなくてよいというようなところがあると描かれている。とくに象徴的なのは体を人に触られるのを極端に嫌うことだろう。ピッチャーだから利き手を大事に守りたいというのはあるにせよ、体を触られるのがいやだと思うのは他人との距離の遠さを感じさせる。

そんな巧が新田に引っ越してきたのだ。この町で一人で暮らすおじいちゃんはかつて甲子園に何度もいったことがある、名監督という設定だ。なにかことがあるにつけじいちゃんが巧の羅針盤となっている印象を受ける。もっとも、彼が活躍するのはもっと後のことだろう。

さらに巧の弟青波も印象深い。巧より2歳年下の小学生だが、体が弱くいつも熱ばかり出している。その青波が1巻の終わりに野球をやりたいと言い出す。巧はお前じゃ無理だ、俺のようにはなれないと突き放すのだが、今まで見た事もない青波の自我に直面し巧派面食らう。

巧は母との関係も微妙だ。母は野球が嫌いであり、いつも青波の面倒ばかりを見ていて巧とは一線を置いている。かわいくないわけじゃないのだろうが、どう扱っていいのかわからないという感じだ。

だが、一番目立つのはキャッチャー豪だろう。彼は巧とは正反対の人物として描かれている。周りの人間に気を配り、コチコチに凝り固まった巧の自我を全力で受け止める存在だ。

第1巻はこの巧の自我が青波と豪によって揺さぶられ始める物語である。高すぎるプライドと有り余る才能で傲慢な言動を取りがちな巧は当然周囲と摩擦を起こすのだが、それまでその摩擦の原因を外に求めていたのに対し、これを内に求め始める物語である。自分に対する懐疑とでも言おうか?

1巻に描かれているのはそこまでである。2巻以降はどうなるのであろうか?まだ読んでないから当然わからないけれども・・・・・。早く続きを読みたいと思わせる小説だ。久々に心が熱くなったぞ。

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June 30, 2005

沖縄論

ちょっと考えさせられる作品であった。
作者の言うことは分かるし、共感できる部分もあるのだがどうもイマイチ乗りきれない。そんな感じなのだ。

この作品のキーワードはずばり依存心だろう。そして小林は沖縄を題材にして日本全体を論じているのだ。沖縄は国家を考える上で日本の矛盾点を一身に体現する存在であると考えている。要するに沖縄はミニ日本というわけだ。

小林は沖縄の財政事情または県民個々の収入の得方を通じて、生活を主体的に自分でイニシアティブを取って行わず、国からの財政援助に頼りきりになっている現状を依存心という言葉で表している。依存心の発生は国家から個人までのありとあらゆる「日本」的なものを属国根性で充たしてしまうという危険を孕む。とてもじゃないが独立した国家、個人というのが成立しているとは言えないじゃないかと言っているわけだ。

極めて単純な論理で非常にわかりやすい。日米安保に守られ、あらゆる面においてアメリカの言いなりになり主体的に国防というものを考えていない。右向けといわれたら本当に右を向いてしまうのが今の日本なのだ。

誰だって思うだろう。先の大戦であれだけアメリカに反抗した日本が、日米同盟によって骨抜きにされ、のこのこイラクまで手伝い戦争をしていていいのだろうか?自衛隊とアメリカ軍の一体化がこれ以上進んで本当に大丈夫なのか?F15やイージスがどれほど増えようとも日本はアメリカに首根っこを掴まれたままで国防は万全だと言い切れるのか?そもそも悔しくないのか?

この作品には沖縄占領統治のさまざまな矛盾を描いている。アメリカ軍のレイプ事件の続発、農地の強引な取り上げ、虐殺、非民主的な選挙と統治、祖国復帰運動の弾圧。本当にいろいろ出てくる。これら一つ一つの事例を見てくると日本人として怒りが湧くのは当然だろう。アメリカは100%植民地として扱い、現在でも見下した態度を取っていると感じてしまうのはおよそ日本人なら誰でも感じることなんだと思う。

だが実際には日本人は何もできない。「命どぅ宝、お金どぅ宝」などと表現しているが、要するにこれは依存心からくる現状追認の態度なのだ。日米安保に依存し経済的利益のみを追求し、現在の豊かさはそこから出てきているのであり、平和もそこから出てきているのであり、それを変えることは極めて難しく、現状を追認するしかなくなおかつ変える気概もない。依存心とはそういう弊害をもたらすものなのだ。

独立国家としての誇りとは何か、あるいは経済的豊かさや一国だけの平和のみを主目的に生きていくことの是非はないのか。小林の言いたいことはそこだろう。金よりも一国だけの平和よりもさらには命よりも上位に来る価値があると考えているのだ。それは伝統であり、歴史への尊敬のまなざしというべきことなのだろう。人によってはこの考え方を民族主義であるといって退けるかもしれない。だが自国の伝統や歴史に敬意を払わないものが他国の伝統や歴史に敬意を払うだろうか?ここがこの作品の肝なのだろうと思う。

僕はこの考え方を理解しつつもどうしても釈然としない思いにとらわれてしまう。本当にこの考え方についていって大丈夫なのだろうかというおそれが僕の心に浮かんでしまうのだ。

小林は近年、新米保守を盛んに攻撃している。確かに戦争に大義は必要ないなどの暴論は僕でも許せない。戦争の決断とは重いものなのだ。そこに大義がないのに戦争を仕掛けるとは、そいつは唯の狂った侵略者だと言わねばならない。嘘でも大儀は必要なのだ。小林の言っていることは極めて正しいのだ。

ただ僕の目には小林と親米保守との衝突は、戦略なき思想家と思想なき戦略家の衝突に見えてならない。僕が小林の考え方を理解しつつもついていけないと考えてしまうのはここにある。純粋な思想とは恐ろしいのだ。自らの思想に純粋であるあまり、世界にその思想を強制してしまう。世の中の実態とは思想ほどには単純ではなく、思想どおりにはいかない。理想を求めるあまり無理な要求を世の中にしてしまいかねない。

僕らは知っているはずだ。いわゆる左翼イデオロギーに凝り固まった人々が憲法9条を盾にして、恐ろしく非現実的な要求を世の中にして、どれほど日本を歪めたのかを。ありもしない夢を見続け、現実世界から遊離し、妖しく光る電灯に吸い寄せられる蛾のように実体のない世界の構築を夢見た愚かな時代を。

小林と左翼イデオロギーはコインの表裏なのではあるまいか?小林の思想を純粋に敷衍していけば反米となるのは必然なのではあるまいか?そのような疑念を僕はどうしても持ってしまうのだ。小林は「マナーとしての反米」などといっている。ちょっと酔狂な言葉だと思わざるを得ない。これは日米安保の戦略的価値を認め、ただしそれに呑み込まれないぞという気概を持てということなのだろうが、彼の思想に例外を設けているのだと思う。それはちょうど法律にたくさんの例外規定を設けるとの同じ感覚なのかもしれない。

思想なき戦略家も醜態であると思う。「生き残ること」を唯一の行動原理にして動いていく様ははっきりいって見苦しい。「生き残ること」は文句なく重要なことではあるがその醜い姿を他人が見たらどのように考えるのか。「生き残ること」を第一に考えるということはそれは場当たり的にその行動の説明するということになりはしまいか。そしてその説明は後世にまで耐えられるものとなりうるのだろうか?思想とは行動を説明する重要なツールなのだ。それをないがしろにすることは許されないことだと思うのだがどうだろうか?

じゃあ、どういうものがいいのだと問われれば、僕は答えに窮してしまう。妙案などどこにもないから始末に悪い。
閉塞こそが今の日本の現状という気がしており、それに対する処方箋はなかなか見つからない。

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April 29, 2005

武士道

名著といわれる新渡戸稲造の武士道の道徳、及び倫理を
英語で解説した本。
この岩波のものは訳が古いのだが読みづらいということはない。
ただ、前提として欧米の道徳観念は知っておくべきなのだと思った。
これを知らないとちょっとこの本は難解だろう。
かくいう僕もそんな予備知識は持たずに読み始めたため
わからない感じがした。

要するにこの本では新渡戸稲造は
日本にも倫理体系があるということを
欧米に示したかったのだろう。
ともすれば、この時代
日清戦争が終わった直後くらいのようだから
まだまだ欧米の対日観はいい加減なものであったのだろう。
日清戦争に勝利したことにより
新興国日本が欧米人の頭の中に急に
クローズアップされてきたのだろう。
未知の国のイメージは必ずしも芳しいものではなかったものに違いない。
何といっても非キリスト教国なのだ。
欧米にしてみれば何でこんな野蛮な連中がいきなり国際社会に出てきたのだ?
という印象であったに違いない。
そこで新渡戸稲造は日本にも倫理の体系があるのだと示すため「武士道」を
紹介したのだ。
そのことは第一版の序に書いてある。

ここに書かれている武士道をどう考えるか?という問題だが
少々の違和感は感じざるを得ない。
それは時代的なこともあるだろう。
新渡戸稲造がこれを書いたのは明治の中ごろ
現代は21世紀だ。
余りに時代がへだったっている。武士道に関する観念が
変わってきてしまうのもありえる時間の長さだ。

また、新渡戸がキリスト教に基礎を置く道徳観念と
日本の武士道がそんなに違わないものですよと
いいたいために、キリスト教に武士道を合わせているように思える。
特に「愛」を持ち出して、基本道徳を説明しようと試みている
箇所はう~んと唸ってしまう。
ちょっと違うのではないのか?
そういう日本人としての直感みたいなものを感じてしまうのだ。

しかし、全体的に新渡戸の努力と慎重さの後が窺えるのも事実だ。
歴史的な名著でもあり、一時代を築いた作品でもある。
また武士道の説明も極端におかしいというわけでもないので
読んでみるのもいいでしょう。
欧米から見た武士道というのは案外こういうものだと思えるかもしれない。

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April 28, 2005

博士の愛した数式の感想文

本屋大賞受賞作品である。
タイトルがよい。昨年この本を本屋で見かけたが
読む時間が全くないのでスルーしていたのだが
今年になってようやく読むことができた。

内容は
交通事故で記憶が80分しかもたない老数学者のもとに
家政婦である私が派遣されてきた。
博士の記憶はちょうど80分しか持たない一本のビデオテープみたいな
もので、私は博士の家に出勤するたびに
靴のサイズと電話番号を聞かれる。
ある日博士は私に息子がいることを知ると
子供を一人にしてはいけないと、ものすごい剣幕で
怒り出す。私は博士にいわれたとおり、息子を博士の家に連れてくる
博士は息子の頭のてっぺんが平らなのを知ると
彼にルートとあだ名をつける。

こんな感じで始まる物語だ。
博士は数学に限りない愛情を注いでいて
読んでいる自分には、滑稽に映りつつもその純粋さに心打たれる。
また、博士の子供に対する愛情の注ぎ方は
小さきもの、か弱き者に対する絶対の保護者ともいうべきで
はっとさせられる。本屋大賞に選んだ書店員の人々はこの辺りに
参ってしまったのではなかろうか?子供に対する大人の態度は
かくあるべしと考えさせられるのだ。
僕はルートが怪我をして病院での場面
三角数の説明をしながら、博士が泣き出してしまう場面が
切なかった。博士が子供を守ってやれなかったという自責の念を
必死で数学の説明で心のバランスをとろうとし、そのバランスが
とれず、泣き崩れてしまうあのシーンは美しく、せつない。

博士が高熱を出した翌朝、背広に付けられたメモを見ながら
すすり泣くシーンも切ない。80分しか持たない記憶という現実に
孤独に対峙するその姿が悲しい。どうすることもできない現実に
たった一人で向かい合わなければならないこの孤独。
これを孤独と言わずして何を孤独といおうか?
このシーンほど胸を打たれるシーンはない。

極めて個性的な博士と平凡な親子の
日常が淡々と描かれている。
一気に読んでしまった本だし、
またそうさせるだけの力のある本だと思う。
お奨め傑作の本です。

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April 24, 2005

亡国のイージス

ついに読みました、この本。
今年の夏には映画が公開されるので
その前に読むのもいいでしょう。

その感想文なのだがなんとも書きようがなくて困っている。
上下2巻の作品で規模が大きいということもあるが
その内容も多岐に渡っている。
まず、護衛艦内部の士官と下士官の世界がある。
それから防衛庁の諜報組織の世界もある。
また、事件がおきてからは政府内の世界もある。
非常に多岐にわたる内容を、読者を混乱に入れることなく
書き分けたのはすごいなと思う。

内容は日本版TMD構想に従って護衛艦いそかぜが全面改修を受け
ミニイージスとして生まれ変わる。その艦長宮津は一人息子隆史を交通事故で失った。
もっともこの事故ののち宮津の元を訪れた男によって息子は交通事故ではなく
政府の防諜組織ダイスによって殺されたということを教えられる。
今まで自衛隊に属し国家を疑うことを知らなかった宮津は
息子を理不尽に殺した国家に復讐を誓い、護衛艦いそかぜにに乗り込む。
一方同じ護衛艦いそかぜの仙石は航海の直前、妻に三行半を突きつけられ
自らの人生の振り返られずにはいられない。下士官をまとめる先任伍長として
いそかぜに乗り込む。
さらに防衛庁の防諜組織ダイスの渥美は米国の特殊兵器を強奪した
ホ・ヨンファを追っていた。
いそかぜクルー如月は他と交わることなくクールに仕事をこなしていたが
兵長の田所とそりが合わず喧嘩になってしまう。仙石は如月の手に触れることができない
心の内奥を前に途方に暮れてしまう。

とまあ、さわりを書いただけでこんな風になってしまうわけです。
事件が起きる前を書いただけでもこんな風にややこしくなってしまう小説だ。

作品の評価としてはどうだろうか?
各人物の背景が詳しく述べられていてその点では
非常に作品に入りやすいといえると思う。
文句のつけようがない。
時代背景もきちんと描きこまれていて、少なくとも
「半島を出よ」のようなわかりにくさはない。
完成度は高いといえると思う。
なかなかお奨めの作品だ。

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April 19, 2005

雨恋

この本の帯には「ありえない恋ラスト2ページの感動」
なんて書いてあり、恋愛小説かと思って読み始めたら
思いっきり推理小説だった。恋愛小説と読めなくはないが
出版社の商魂たくましすぎる。

さて、内容なのだが
主人公の渉はひょんなことからとあるマンションに住むことになり
そこで幽霊に出会ってしまう。
女の幽霊。姿は見えなくて、声だけ。どういうわけか、雨の日にしかこのマンションに現れない。
なんでもこのマンションで自殺したのだが
実際は自殺ではなく、誰かに殺されたというのだ。
女の幽霊 千波(ちなみ)は渉に真犯人を探して欲しい。
と頼む。

こんな内容である。
まず何といってもアイディアが奇抜だ。
調べを進めるうちに何か疑問が解決されると
千波の姿が少しだけ見える。
脚だけ、続いて下半身、上半身という具合に。
千波はスタイルがとてもよいから
若い男渉にすればどぎまぎしてしまう。
ただその描き方はとても幻想的で
美しく、ぎらぎら感はない。
その辺りがとても好感が持ててよいと思う。
ただ男の読者からすれば、ちょっぴり物足りないように
感じてしまうのは致し方ない気もするが
僕はこのぎらぎら感のなさが、かえって、この小説が
下品にならず、とても、上品にまとまっている感じにおもえてならない。
とてもよい作品だと思う。

惜しむらくは、ミステリとしてちっとも面白くないところだろうか?
謎解きが全く面白くない。
まとめがところどころ入ってくるのは仕方ないがちょっとうざい。
特に最後の「後説(あとせつ)」部分がいただけない。
やたら長く書いていて読んでて、だれる。
この部分はさっと、テンポよく書いて欲しかった。
それまでの小説のリズムは非常にテンポ良く進んでいたのだから
ここでリズムを崩してはダメだな。

全体としては渉と千波の恋がとてもはかなく
大ラスで千波の姿が消えてなくなるとき、
2匹の猫と一緒に見守る姿が切なくてとてもよかった。
僕は恋愛小説として非常によいのではないかと思います。
はっきり言ってとてもよい作品です。
ぜひとも読んでみて欲しい作品だね。

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April 18, 2005

半島を出よ

上下巻を昨日の深夜読み終わった。その感想文を書いてみる。

なんともわかりにくい小説だと思った。
わかりにくさはどこから来るかといえば、
物語の設定にあるように思う。
この設定むりがあるなあ。というのも2011年の日本を舞台に
しているのだが、この頃には米国の通貨ドルが暴落して
それに合わせて円も暴落し、経済は完全に行きずまり、
しかも食糧危機も発生しかねないという状況だ。
日本は没落しているという設定なのだ。
ここまではいい、フィクションとしてはありうべき設定だろう。
ところが、日本国内の細かい描写になると「豊かな国日本」の描写になってしまい
ちっとも危機などない。
ホームレスが格段に増えていると書かれているが、
増えているという記述に特段のリアリティはなく、非常にわかりにくい。
この小説では、時代状況の設定が非常に重い比重を占めているので、
このわかりにくさは致命的なミスといえる。赤坂の夜の章では
高いワインを飲みに来る客を迎えるバーのマスターを描いているが
そこには危機や切迫感はない(もっとも、作者としては日本が高所得者層と低所得者層の2極分化、ひいては東京と地方の切迫感の違いを描いているつもりかもしれないが、それほど成功しているわけではない)。

また、福岡の東京に対する反感をNHK小川を通して描いているが
これには違和感を感じざるを得ない。
ここでは、地方の東京に対するコンプレックスを書いていて、わからないわけではないが
理解に苦しむ。僕も地方の人間であり東京へのコンプレックスという感情を共有してはいるが
その反面、東京なしには生きられないという現実を理解しているわけで、愛憎半ばする感情というところだろうか?ちょっと理解しがたい感覚がこの小説にはあるようだ。

また、この小説は各章にそれぞれ違う1人の主役を置いて、物語を進めていくのだが
こういう手法をとればやはり統一感というのは失われるわけで、それはそれで致し方ないことだと思う。
作者はその辺りのことは十分理解して作っているのだろう。

それぞれの描写だがこれはすごい!
とくに僕がすげーと感動したのは、「死者の船」「退廃の発見」であろうか。
「死者の船」には共有感覚を見つけ出す過程が描かれていて美しいと思った。
共有感覚を喪失した少年達(あるいは現代日本人?)がふわふわとして曖昧な共有感覚を
掴む姿は正直感動した。確かに共有感覚というのは皆でわいわいすることではないのかもしれない。
それは上辺だけの共有感覚で確かな手ごたえのないものなんだろう。
ふわふわとした曖昧な共有感覚とは例えば、映画や演劇に感動して自然と拍手し、スタンディングオベーションになるというような物もあるのだろう。このとき見ず知らずの観客達は間違いなく共有感覚を持っている。面白いと思った。目から鱗だと思った。

「退廃の発見」には驚いた朝鮮の将校が発見するのだが、「多数のために力のない少数者が犠牲になることだ」と発見するのだ。
まあ、一般に言われるような退廃のイメージとは違うとはいえるのだが、
だがここでいえるのは、国家とか、集団は「多数のために力のない少数者が犠牲になることだ」という定義を
自然と内包せざるを得ないということなのだろう。それは抜きがたい社会のシステムであり
このシステムをなくそうとすれば、全く孤独に生きるくらいしか方法がない。
退廃とは孤独の恐怖ともいえるわけで退廃を避けたいと願うならば、孤独の恐怖に耐えねばならないと
いうことだろうか?なかなかの慧眼だと思った。

これはいただけないと思ったのは、日本政府の描写だろうか。
余りにも矮小化しすぎて描いている。もう少し日本政府は
果敢な政府だと僕は思っているのだが、どうだろうか?
もっともイラクへの自衛隊の派遣でろくな武器も持たせず
現地に送り出したことを考えれば
むべなるかなと思わないでもないのだが、ちょっと気に入らない。
日本外交は意外に国益を踏まえ、冷徹な計算をするように思うのだがどうだろう?
(今起こっている中国、韓国の反日運動に関連して竹島を放っておいて、東シナ海のガス田開発から手をつける
というのは資源のない、竹島を見事にスルーして、優先順位を過たずつけているように思うのだがどうだろう?)
もう少し考えたほうがいいだろう。
決断力のなさが日本の歴史みたいに言われるが
少なくとも日本は自分の意思で日清、日露、大東亜という戦争を選択してきたのだから。
矮小化しすぎる描写は決してうまくはないし、物語に軋みが生じてしまう。
国土を荒らされて黙っている政府はいません。

全体的に人物の描写は非常によく書けていて舌を巻くほどだが
大もとになる背景の設定は脆弱だというのが、率直な評価というところだろうか。

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