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2009/06/07

禅 ZEN

道元禅師を主人公にした中村勘太郎初主演映画だ。劇場はなかなかの盛況ぶりで驚いた。道元禅師は歴史の教科書には確かに出てくるが、かといって空海並みにメジャー級かといえば決してそうとは言えないだろう。僕だってその名と著作のタイトルしか知らない。正法眼蔵。時代が道元を求めているのだろうか?

この映画は道元の一代記なのだが、なかなか良くできていると思ったのは粗筋だけを無理やり詰め込んだという感じではなく、きっちりキャラクターを描けていることだろう。20代の半ばから50代の死去の場面まで長い長い期間を僅か2時間で駆け巡るから各エピソードが普通だったら淡白になりがちなのだが、この作品に限っては決してそんなことはなく無理なく見ることができる。パンフレットには1ヶ月程度で脚本を完成させたというから驚きだ。

さらに驚異的なのはこの映画は求道者を描いていることだろう。道元とはおのれに厳しい人であったようでその姿はまさに求道者と呼ぶにふさわしいものだが、得てしてこういった人物を取り上げるのは単調になりやすい。そりゃそうだろう。求道者というのはひたすらに目的を求め、失敗が少なく、艶っぽい話もあり得ない。道を求めることに一生懸命だから脇道に逸れるということ自体がめったになく故に葛藤が少ない。もちろん求める道の追及の過程においてはその境地に至れぬ自分を責めたりもするのだが、それはキャラクター内部の葛藤であって観客にとってわかりやすく提示することが極めて難しい。求道者を描くということは特に映像表現においては実に難しい題材なのではないかと僕は思っている。

だがこの作品はそういったことを軽々と飛び越している。実に稀有な作品だ。おもうに内田有紀が演じたおりんが実によく描かれていたためなのかもしれない。このおりんとは京で体を売って生活する遊女であって設定が突飛というかえぐいというかそういうキャラクターなのだが、これの登場人物に代表される大衆の取り巻く状況がこの作品のリアリティを支えているように思う。

加えて道元が語る只管打座という考え方が現代にマッチしているのかとも思う。あらゆる困難に只管打座を勧めるというはなかなか突き放した回答だと思う。何となれば只管打座とはただひたすらに座禅せよ、己を見詰めよということなのだから。困難がおこれば人は解決策を求めるものだ。昨今のカウンセリングのはやり方は人々が解決を求めた結果なのだろう。だが、只管打座に答えはない。答えは自分自身で求めよということなのだ。答えのない問題に答えるのは己だけ。他人を当てにしない厳しい姿勢が自立した人間を育むといったところだろうか。なかなか考えさせられる重いテーマだと思う。

少しの知識で手荒に扱っていい作品とは思えない。次回見る機会があるとしたらもう少し勉強してからのほうがいいだろう。久々に怠惰な僕に緊張感を与えてくれる映画に出会ったと思う。

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