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2009/06/09

ジャンヌ・ダルク

リュックベッソン監督、ミラ・ジョボヴィッチ主演の映画。奥書をみると1999年の公開になっていて、もう10年前の作品だ。隔世の感がある。ブルー・レイで観た。

実はこの映画僕は見逃していた。ベッソンは好きな監督であったし、正直観たいなぁとは思ったものの主演がミラ・ジョボヴィッチであったことに二の足を踏んだように記憶している。彼女を最初に見たのは「フィフス・エレメント」だったが、どうも好きになれなかったのだ。顔立ちもさることながら芝居も何だかイマイチのような気がしてケッと思っていた。

あれからずいぶん時間が経って見直してみると、なかなか良い。この映画は全編をキリスト教的な宗教感、神の存在と人間というテーマが横たわっているにも関わらずなぜか僕はこの作品でミラとは何てチャーミングな女性だろうと思ってしまった。そんなシーンなんて全くないのに!

特にオルレアンを解放した後孤立していくジャンヌが捕縛され神のごとき黒衣の男と対話するシーンが実にいい。なかなかひりひりする場面なのだがその葛藤、あるいは己の弱さやずるさに向き合う一連のシーンはこの女優の実によき部分があらわされているように思えてならない。困惑の表情や、悲しみの表情にちらと見える女らしさが加わって実に愛らしいのだ。いや、そんな言葉を使うべきシーンでないのはわかっているのだが・・・。そう感じてしまったのは仕方がなかろう?

あるいはそんなことを感じさせるミラがすごいのだろうか?

さて映画そのものの評価としてはどうなんだろう。これはなかなか野心的な作品だと思う。なぜって、この映画は一人の少女の英雄譚でもなければ悲劇譚でもない。人間のあさましさや、愚かさ醜さをそういった価値観から最も遠い所に位置していると思われる聖少女を通して描いているからだ。ラスト近く人を殺したか否かの問答を黒衣の男とするのだが、この問答ほど大きな問題を孕むのものはなかろう。何となればそれは聖と俗とを峻別することが難しい、あまりに曖昧すぎる境界線が一個の人間の中に横たわることを示唆する。高潔な目的の為に邁進したい、あるいはしてきたという自負を持つものにその過程においてその高潔な目的を汚すような行いがなかったか?何よりもその行いに目をそむけ見ないようにして、目的に添う自分の行いのみを輝けるものと美化してこなかったのか?人間のありきたりな姿を見ないようにしたその原因は一体何なのか?突き詰めればなかなか難しい問いであろう。ジャンヌのセリフに見たいと思う現実を見たというようなセリフがあったが、この台詞の持つあまりに重い問いはいつだって僕らに突きつけられているはずなのだがその問いさえも僕らは忘れようとあるいは見ないようにしようとしているのではあるまいか?

とりとめもなくそんなことを思ってしまった一本だった。考えよ、と叱責されているような重い一本だった。

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