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2009年6月

2009/06/28

レザボア・ドッグス

クウェンティン・タランティーの初監督作品。彼はこの作品で成功への階段を一気に駆け上がり、次作の「パルプ・フィクション」でカンヌ国際映画祭のパルムドールを獲得するなど、過分とも言える、あるいは目を見張るような活躍っぷりを見せつけたものだ。当時の僕はといえば東京に出てきて間もない頃で、東京ではこんな映画が上映されるのかと驚いていたころだ。もう何回見たことだろう?今回はDVDで鑑賞した。

僕の好みでいえば「パルプ・フィクション」よりこちらの「レザボア・ドッグス」のほうが好きだ。「レザボア・ドッグス」の構成は斬新でゆえに緻密でもあった。場面が基本的には強盗団のアジトの倉庫しかなくそこで繰り広げられる物語は濃密であった。

公開されてから10年以上の時間が経過しているが、古びた感じが全くない。今すぐに劇場で公開しても全く遜色ない出来栄えといえば、これは傑作と言っていい作品なのだろう。

この作品の特徴は省略の美であろうと思っている。余計なものが一切出てこない。女は出てこない、余計な恋愛描写はない、家族に対する愛は描かれず、そもそも家族がいるかどうかさえ分からない。黒人は出てこない、人種に対する配慮がなくそもそもマイノリティに対する何の意見も表明しない。登場人物の過去がほとんど描かれない。だけど登場人物の個性はきっちりわかるように描写されている。大事なことは強盗団の話なのに肝心の強盗のシーンがなく、宝石店からの逃走シーンしかない。映画に付随するであろう様々な要素をこそぎ落し「この中に警察の犬がいる。その犬を探し出せ」にのみストーリーが集中している。しかも過去から現在への一直線的な時間の経過はたどらず、自由に過去と現在を行き来する。一切の余計なものを廃し、ひたすら現在を語ることに重きを置く。しかも現在を語る時のディティールの細かさといったらどうだろう?冒頭のチップを払う払わないのばかばかしさや、中盤の宝石店からさらってきた若い警官の耳を切り取るシーンでもミスターブロンドが剃刀を自分の頬に当てて見せてから音楽に乗って警官の耳を切り取ってしまうところなど、現在をのみを表現していながら、その人物の持つ個性が大胆に表現されている。

まったくもって隙のない作品だと思う。10年以上の時間が経過して現在でも強くそう思う。未見の人はぜひ見ておくべき作品だろう。

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2009/06/20

Juno

アメリカ映画を見ていて不思議だと思うことが時にある。何年かに一本青春映画の傑作が生まれるのだ。邦画全盛の昨今において、洋画、特にハリウッド製の作品が振るわない中にあって、この作品はどれだけ低く見積もっても佳作の域には達していよう。アメリカ映画は侮れない。そんな感慨を強く持った作品だ。Blu-rayで観た。

16歳で妊娠する。人生の大きな岐路に立たされてしまう少女の姿をこの映画は実に軽やかにポップに描写する。その裏に隠された突風のような不安な心理を覆い隠すかのように。

この映画の面白いところは主人公ジュノという女の子だろう。学校では変わり者とみられているが実際には好きな男の子とのセックスをして妊娠をしてしまうという事実は変わり者と見られているこの少女とてその内面に抱える資質が他の少女たちと少しも変わらないということを表わす。何となれば、妊娠というどうしても他の人々の手を借りねばならない状況の中で、そして16歳という偏見の目で見られがちな状況の中で彼女は本当に愛している人々は誰か、愛しているのはだれなのかということに少しずつ気付いていくのだから。

一人の少女の成長物語としてなかなか面白い作品だ。何より青春映画としてきちんと成り立っている。間違いなく佳作にはなっているだろう。

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2009/06/19

孤高の禅師 道元

映画「禅」を見たこともあり勢いあまって買ってしまった本だ。意外と影響を受けやすい自分に苦笑する。

この本は「日本の名僧」というシリーズ本の9番目に当たるもので他に法然や一遍など、日本史の教科書に必ず出てくる有名人ばかりが入っている。

一読した感想は「いやはやなかなか手に負えんわい」というものであった。本書は最初、道元の生涯を簡単に追いながら、それぞれの諸問題についての小論が続くといった具合で、特に最後の2章は仏教哲理にかかわってくる内容で僕にとっては難解であった。だがしかし、これらの内容については仏教を専攻した人ならだれでも簡単にすっと頭に入ってくる内容なのではあるまいか?少なくとも専攻する学生には初歩的なのだろうが門外漢の僕にとっては難しいものであった。

本書に語られる道元はこの時代の人としてはかなり特異な存在であったようだ。特に5章の「道元の清規」にかなり特徴的に表れている。清規とは寺院内における生活の方法や儀式に関することを記したルールブックのようなものらしいのだが、同時代の他の僧侶と比べても罰則規定がなかったり、時の権力への迎合がなかったりシンプルな印象を受ける。その代りに修行をする者に対しては自己を徹底的に規律することを求めたものらしい。

印象でしか物をかたることができないのが何とももどかしいが、非常に現代的で洗練された考え方のように思われてならない。というのも僕が学生であったころはまさしく個の確立なるものが目指されていたように思うのだ。大江健三郎あたりの文章をずいぶん読まされて閉口した記憶があるが自立し、完成された個というものが何であるのかずいぶん叩き込まれたように思う。それからすると他律的な生き方を否定するこの道元の清規の考え方はしっくりくる。もっとも今ではずいぶん時代が変わって助け合って生きていこうみたいな考え方に変わっているのだろうけれども、そういったものの考え方にある種の嫌悪感を抱いてしまう僕にとっては自律的な生き方を目指す道元的な考え方は好ましいと言わざるを得ない。結局は人生は己の意志と決定とその責任によって決まると考える僕は個の確立を目指す少し古いタイプの人間なのかもしれない。

もう少し時間があったならこの道元という人を追求してみたい。そんなことを思ってしまった。

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2009/06/18

コネタマ参加中: 毎日の朝食、あなたはご飯派? パン派?

日本人ですもの、朝はやっぱりご飯でしょ。

ご飯、味噌汁、納豆があれば至福のひと時ですな。

もっとも会社に遅刻してしまいますのでのんびりしていられないのは物悲しいことではあります。

旅館の朝の朝食がいいですな。不思議なのは旅館の朝食で味付け海苔が出てくるけどなんであの味付け海苔はうまいんだろう?家で普通に味付け海苔を食べてもそんなにうまいとは思えないのに旅館のやつはうまいよなぁ。何か秘密でもあるのだろうか?

パン党の人には悪いが朝はやっぱりご飯でしょ。パンは理解できないですなぁ。

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2009/06/09

ジャンヌ・ダルク

リュックベッソン監督、ミラ・ジョボヴィッチ主演の映画。奥書をみると1999年の公開になっていて、もう10年前の作品だ。隔世の感がある。ブルー・レイで観た。

実はこの映画僕は見逃していた。ベッソンは好きな監督であったし、正直観たいなぁとは思ったものの主演がミラ・ジョボヴィッチであったことに二の足を踏んだように記憶している。彼女を最初に見たのは「フィフス・エレメント」だったが、どうも好きになれなかったのだ。顔立ちもさることながら芝居も何だかイマイチのような気がしてケッと思っていた。

あれからずいぶん時間が経って見直してみると、なかなか良い。この映画は全編をキリスト教的な宗教感、神の存在と人間というテーマが横たわっているにも関わらずなぜか僕はこの作品でミラとは何てチャーミングな女性だろうと思ってしまった。そんなシーンなんて全くないのに!

特にオルレアンを解放した後孤立していくジャンヌが捕縛され神のごとき黒衣の男と対話するシーンが実にいい。なかなかひりひりする場面なのだがその葛藤、あるいは己の弱さやずるさに向き合う一連のシーンはこの女優の実によき部分があらわされているように思えてならない。困惑の表情や、悲しみの表情にちらと見える女らしさが加わって実に愛らしいのだ。いや、そんな言葉を使うべきシーンでないのはわかっているのだが・・・。そう感じてしまったのは仕方がなかろう?

あるいはそんなことを感じさせるミラがすごいのだろうか?

さて映画そのものの評価としてはどうなんだろう。これはなかなか野心的な作品だと思う。なぜって、この映画は一人の少女の英雄譚でもなければ悲劇譚でもない。人間のあさましさや、愚かさ醜さをそういった価値観から最も遠い所に位置していると思われる聖少女を通して描いているからだ。ラスト近く人を殺したか否かの問答を黒衣の男とするのだが、この問答ほど大きな問題を孕むのものはなかろう。何となればそれは聖と俗とを峻別することが難しい、あまりに曖昧すぎる境界線が一個の人間の中に横たわることを示唆する。高潔な目的の為に邁進したい、あるいはしてきたという自負を持つものにその過程においてその高潔な目的を汚すような行いがなかったか?何よりもその行いに目をそむけ見ないようにして、目的に添う自分の行いのみを輝けるものと美化してこなかったのか?人間のありきたりな姿を見ないようにしたその原因は一体何なのか?突き詰めればなかなか難しい問いであろう。ジャンヌのセリフに見たいと思う現実を見たというようなセリフがあったが、この台詞の持つあまりに重い問いはいつだって僕らに突きつけられているはずなのだがその問いさえも僕らは忘れようとあるいは見ないようにしようとしているのではあるまいか?

とりとめもなくそんなことを思ってしまった一本だった。考えよ、と叱責されているような重い一本だった。

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2009/06/07

禅 ZEN

道元禅師を主人公にした中村勘太郎初主演映画だ。劇場はなかなかの盛況ぶりで驚いた。道元禅師は歴史の教科書には確かに出てくるが、かといって空海並みにメジャー級かといえば決してそうとは言えないだろう。僕だってその名と著作のタイトルしか知らない。正法眼蔵。時代が道元を求めているのだろうか?

この映画は道元の一代記なのだが、なかなか良くできていると思ったのは粗筋だけを無理やり詰め込んだという感じではなく、きっちりキャラクターを描けていることだろう。20代の半ばから50代の死去の場面まで長い長い期間を僅か2時間で駆け巡るから各エピソードが普通だったら淡白になりがちなのだが、この作品に限っては決してそんなことはなく無理なく見ることができる。パンフレットには1ヶ月程度で脚本を完成させたというから驚きだ。

さらに驚異的なのはこの映画は求道者を描いていることだろう。道元とはおのれに厳しい人であったようでその姿はまさに求道者と呼ぶにふさわしいものだが、得てしてこういった人物を取り上げるのは単調になりやすい。そりゃそうだろう。求道者というのはひたすらに目的を求め、失敗が少なく、艶っぽい話もあり得ない。道を求めることに一生懸命だから脇道に逸れるということ自体がめったになく故に葛藤が少ない。もちろん求める道の追及の過程においてはその境地に至れぬ自分を責めたりもするのだが、それはキャラクター内部の葛藤であって観客にとってわかりやすく提示することが極めて難しい。求道者を描くということは特に映像表現においては実に難しい題材なのではないかと僕は思っている。

だがこの作品はそういったことを軽々と飛び越している。実に稀有な作品だ。おもうに内田有紀が演じたおりんが実によく描かれていたためなのかもしれない。このおりんとは京で体を売って生活する遊女であって設定が突飛というかえぐいというかそういうキャラクターなのだが、これの登場人物に代表される大衆の取り巻く状況がこの作品のリアリティを支えているように思う。

加えて道元が語る只管打座という考え方が現代にマッチしているのかとも思う。あらゆる困難に只管打座を勧めるというはなかなか突き放した回答だと思う。何となれば只管打座とはただひたすらに座禅せよ、己を見詰めよということなのだから。困難がおこれば人は解決策を求めるものだ。昨今のカウンセリングのはやり方は人々が解決を求めた結果なのだろう。だが、只管打座に答えはない。答えは自分自身で求めよということなのだ。答えのない問題に答えるのは己だけ。他人を当てにしない厳しい姿勢が自立した人間を育むといったところだろうか。なかなか考えさせられる重いテーマだと思う。

少しの知識で手荒に扱っていい作品とは思えない。次回見る機会があるとしたらもう少し勉強してからのほうがいいだろう。久々に怠惰な僕に緊張感を与えてくれる映画に出会ったと思う。

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2009/06/03

隠し砦の三悪人

ちょっと映画に詳しい人ならこの作品がルーカスに影響を与えた作品であることを知っているだろう。DVDで観た。

黒澤明の代表作の一つだが、七人の侍や用心棒、影武者といったような作品に比べると知名度では少し劣るかもしれない。

まあ、確かに彼の作品としては少しのんびりした展開の作品であることは間違いないであろう。ストーリーの展開が意外に読めてしまうところが代表作としては少し弱いところか。

先ごろ現代版のリメイク版が上映されていたのだがあれはどうなんだろう?未見であるから何とも言えないが。

なかなか痛快な娯楽作にはなっているだろう。一番の見どころは真壁と田所兵衛の槍での決闘シーンなのだろうが、僕の目を引いたのは意外にも火祭りの踊りのシーンだった。あのシーン何ともモダンなシーンだ。ミュージカルっぽさもあるような気がして、戦国時代の日本の雰囲気をものの見事にぶっ飛ばしているように思えてならない。

何はともあれ肩の凝らない娯楽作として見る分にはなかなか良くできているといえるだろう。

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2009/06/01

漢書に学ぶ「正しい戦争」

櫻田淳の著作を読むのは今回で2冊目だ。ずいぶん前に買ったものだが、今までほったらかしにしていた。もちろん興味があって買ったわけで、ほっておく必要などないのだがなかなか忙しく、このほど読了というわけだ。

一読して思ったのは「櫻田の言わんとすることはわからないではないが、これを万人に理解させるのは相当骨の折れる作業に違いない」ということだ。

軍事行動の態様を漢書「魏相丙吉傳」に従い5つに分類し解説しているのだが、本書の肝は恐らく最終章の『「フクロウ派」の信念』だろう。これは国際政治あるいは国際的な安全保障に対する心構えを説いたものだが、作者が提示するフクロウ派という語にこそわかりにくさが見え隠れする。

フクロウ派という語は専門家には既知のことかもしれないが門外漢の自分には初めて聞く概念だった。乱暴な言い方をすればハト派とタカ派の中間といった意味合いになるもののようだが、この中間という概念が実に曖昧だ。皮肉なことに本書に出てくるハト派やタカ派の語彙は実に豊富だがフクロウ派を表わす語彙の少なさは特筆に値する。それだけこの語が新しく、語そのものに歴史の蓄積の少なさが表れている。そもそもフクロウ派の概念をあらわすのにハト派やタカ派の概念を援用しなければならないのだから歴史の浅さは覆うべくもない。

だが、このフクロウ派の考え方そのものは今の日本にとっては非常に大事なことではないかと僕は考える。というのもそれまで支配的だった観念的な平和主義が湾岸戦争を皮切りにした国際情勢にものの見事に対応できず切り崩され、そのあと勃興するかに見えた保守あるいは民族主義的な考え方もその独善的な姿勢によって結局は国際社会のなかで生きていくことは難しそうだということが透けて見えてしまいそうな昨今においては偏りの少ないより現実的な選択を行ううえでは一種の光明を与えてくれそうな印象を少なくとも持たせてはくれる。

だが実際に何かを選択する場合にはこのフクロウ派の考え方は悩ましいものになるしかない。作者も言っていることだがハト派やタカ派の論議は実に明快でわかりやすい。それは議論の本質が自分が信ずる信念に忠実で純粋性をより高める方向に向きやすいためだからだ。極端に走ると作者は言うが、あらゆる事態に観客にしかなれない我々一般人にはこの極端に走るという極めて鮮明な色づけに目が向かいやすくなるのは致し方ないことだろう。翻ってフクロウ派の議論は煮え切らずつまらないものになりやすい。そりゃそうだ中間的なのだから。本書ではフクロウ派は情勢の統御を追求すると書いてはいるが、それは情勢を劇的に変えてくれる特効薬を持ち合わせていないということを初めから織り込まなくてはならず、選択肢として褪せて見えるのは仕方のないことだろう。悪くすれば情勢が膠着状態に陥ったらお手上げになってしまうということも考えられることなのだから。

だがしかし、現実的な選択として第三の道が用意されているのは考えてみれば幸いなことなのだ。選択することの責任の重さや未来への影響を考えたとき、少々つまらなく物足りない選択肢を半ば消極的に取らねばならない場面もあるかもしれないのだから。無難という安心を現実的と言い換えるのに人はさほど躊躇はしまい。

フクロウ派という語にかかわる概念の蓄積が今後進めば考えは少しは変わってくるかもしれない。そんなことを思った次第だ。

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