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2008/04/08

春琴抄

言わずと知れた谷崎潤一郎の代表作だ。

久々に読んだ。いつ以来だろう?久々に読んで驚いたことはこんなに簡潔な文章であったのかということだ。一切の余分な修飾を省き、狂言回しである「私」が淡々と語るその様は一種のルポを読んでいる錯覚に陥らせる。

この小説は一応「私」が前時代に生きた二人の盲人の男女の記録を拾い上げて語るという体裁をとっている。作中に出てくる「鵙屋春琴伝」に立脚して全体を構成をしているがもちろんこの「鵙屋春琴伝」は作者の創作であろう。

「私」がこの二人の主人公に向ける眼差しはあくまでも客観的である。そこに不気味な迫力を感じないわけにはいかない。とくに名高い男主人公佐助が自らの両眼を縫い針で突くシーンは本来ならば一番力を入れ、詳細を極めた著述をするところであるだろうけれども、本作はそのような作法を取らずあっさりと描いている。このあっさりの匙加減が絶妙で主人公佐助の愛の純化が圧倒的な迫力をもって読者たる僕の胸に迫ってくる。

作品全体を見渡せば、本来あるべき会話部分がほとんど省略されてしまっている。所謂小説の作法を超越したような感じで、古い作品であるにもかかわらず、古さを感じさせない。真に生命力を持った文学とはこういうものかと舌を巻かずにはいられない。

話は変わるが、谷崎というと僕は極彩色のイメージがある。神々しい色使いというか、とにかく色が鮮やかな作品というイメージを持っている。それは多分に僕の勝手な印象なのではあるが、この極彩色のイメージが僕の中での谷崎の評価なのだ。

後年の傑作「細雪」はそういったものを感じさせない、枯淡な印象を与える。だから僕は谷崎の作品群のなかで、後半に属するものはあまり好きになれないのだ。「痴人の愛」や「刺青」前半から中期の作品が好きだ。まさに谷崎の色がこれでもかと盛り込まれているような気がしてならない。

そうであるから、ますます春琴抄の簡潔さがひどく印象に残るのだ。

不可解といえばそれはそうなのだろう。だが見事さの前に凡人の不可解さは跳ね返され途方に暮れてしまう。読者である僕のほうこそが鍛えられねばならないということに気付かせてくれる稀有な小説であると思う。

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