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2008年4月

2008/04/21

マイ・ブルーベリー・ナイツ

ご存知ウォン・カーウェイ監督作である。いまや、巨匠と呼んだほうがふさわしいのだろうか?

僕がまだ大学生だったころ、中国映画が非常に注目された時期があった。それまでの中国映画といえばカンフーであり、ジャッキー・チェンであり、燃えよドラゴンであった。要するに非常にかっちりとした極めて単純なある意味低俗な意味合いにおいて語られるものであった。

だが僕が大学生のころ、つまり90年代の半ばから後半にかけて、それらとは一線を画す作品群が登場してきた。その中心にいたのか他ならぬウォン・カーウェイだった。

斬新なストーリー、魅力的なキャラクター、スタイリッシュな映像。どれをとっても一流だった。

だが、作品を重ねていくごとにストーリーが難解になり、花様年華の辺りで僕はついて行けなくなった。すべてのストーリーは単純であることが肝要と考える僕にとってはウォン・カーウェイのありようは手に負えないものになってしまったのだ。キムタクが主演して話題になった2046はまったくの未見だ。見向きもしなかったのだ。

さて、本作である。一見して覚えた感慨はウォン・カーウェイも老いたなということだった。ストーリーは手堅い。恋する惑星を彷彿とさせる、だが、凡庸だ。主人公に旅をさせ、様々な人とふれあい、人生について考えさせる。随分ありきたりなものではないか。大人が若く経験の浅いものに教えを垂れるような説教臭ささえ感じさせる。

そしてあの映像美がどこかに消えてなくなってしまった。いや、厳密に言えば彼らしい凝った作りにはなっている。アップの多用や、店の窓ガラス越しのカットなど彼らしいこだわりかもしれない。でも斬新というには程遠い。

世の評論家はなんというかはわからない。これだけの名声を博した監督なのだから手放しの賛辞を送っているのかもしれない。だがしかし、僕にはあの時代のあの熱狂の残滓しか画面から読み取れなかった。思うに彼は同時代の視線を失ってしまったのだ。あの90年代の僕達は自らの感性の発露を彼の映画の一こま一こまに代弁させてもらっていたのだ。

時代は流れる。否応なく僕らを過去の人間に変えていく。ウォン・カーウェイのような天才さえも例外ではない。時代に抗う術もなく老いてしまうのだ。過去の手法を焼きなおし、新たな発想を生み出すことなく、時代のほうが僕らを追い越していってしまう。新たな時代の天才と新たな時代の若者が90年代の僕らとカーウェイのような共犯関係を築いて新たな時代を疾走していくのだ。

これほど悲しいことはない。時代の主役の座を僕らの後にやってきた人々に明け渡し、かつての栄光を振り返る。老いてしまった自分を恨めしく思い、後からやってきた人々を羨ましく思う。そんな自分に気付いて劇場を後にした。悲しさと寂しさがいっぺんに襲ってくるそんな映画体験だった。

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ねにもつタイプ

これは面白い!断然面白い!!こんなに面白いものを読んだのは久しぶりだ。

もしカテゴリーに分けるとしたならば、この作品はエッセイということになるのだろう。だが一読して気付くことはエッセイという陳腐な枠組みをぶっ飛ばしているということだ。非常に良質のショートショートでもあり、けったいな妄想集でもあり、何だか深い思索の書でもある。いやそんな言葉さえも陳腐だと感じさせるほどに圧倒的な存在感なのだ。

天才だ。読むほどにニヤリとさせられ、読み進めていくと「ああ、あるある」と思わせて、でも良く考えるとそんなのあるのかと疑問を覚える。こんな文章なかなかお目にかかれるものではない。

例えばちいさな富士山の項を読んでみるといい。人間の妄想としても読めるが、エスカレートする欲望の様とも読めるではないか。直線的に見せながら、単純な直線などどこにもない。一癖も二癖もあるのだ。

あまりの面白さのために、僕はもうこの本を人に貸してしまった。今手元にはない。いますぐに再読できないのが残念で仕方がない。軽率なことをしたと軽く臍を噛んでいる次第だ。

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2008/04/08

春琴抄

言わずと知れた谷崎潤一郎の代表作だ。

久々に読んだ。いつ以来だろう?久々に読んで驚いたことはこんなに簡潔な文章であったのかということだ。一切の余分な修飾を省き、狂言回しである「私」が淡々と語るその様は一種のルポを読んでいる錯覚に陥らせる。

この小説は一応「私」が前時代に生きた二人の盲人の男女の記録を拾い上げて語るという体裁をとっている。作中に出てくる「鵙屋春琴伝」に立脚して全体を構成をしているがもちろんこの「鵙屋春琴伝」は作者の創作であろう。

「私」がこの二人の主人公に向ける眼差しはあくまでも客観的である。そこに不気味な迫力を感じないわけにはいかない。とくに名高い男主人公佐助が自らの両眼を縫い針で突くシーンは本来ならば一番力を入れ、詳細を極めた著述をするところであるだろうけれども、本作はそのような作法を取らずあっさりと描いている。このあっさりの匙加減が絶妙で主人公佐助の愛の純化が圧倒的な迫力をもって読者たる僕の胸に迫ってくる。

作品全体を見渡せば、本来あるべき会話部分がほとんど省略されてしまっている。所謂小説の作法を超越したような感じで、古い作品であるにもかかわらず、古さを感じさせない。真に生命力を持った文学とはこういうものかと舌を巻かずにはいられない。

話は変わるが、谷崎というと僕は極彩色のイメージがある。神々しい色使いというか、とにかく色が鮮やかな作品というイメージを持っている。それは多分に僕の勝手な印象なのではあるが、この極彩色のイメージが僕の中での谷崎の評価なのだ。

後年の傑作「細雪」はそういったものを感じさせない、枯淡な印象を与える。だから僕は谷崎の作品群のなかで、後半に属するものはあまり好きになれないのだ。「痴人の愛」や「刺青」前半から中期の作品が好きだ。まさに谷崎の色がこれでもかと盛り込まれているような気がしてならない。

そうであるから、ますます春琴抄の簡潔さがひどく印象に残るのだ。

不可解といえばそれはそうなのだろう。だが見事さの前に凡人の不可解さは跳ね返され途方に暮れてしまう。読者である僕のほうこそが鍛えられねばならないということに気付かせてくれる稀有な小説であると思う。

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2008/04/05

国家の役割とは何か

何だか品のいい、口当たりのソフトな書物である。作者である櫻田淳はブログを開設していて僕はそのブログのファンではあるのだが、普段の彼の冷めた切れ味の鋭い言葉とは打って変わったその文章の雰囲気に驚いた。

もっともこれは本書の意図するところが政治学を学んだことがない人々に向けての本であるからかもしれない。牙は意図して隠されているのかもしれない。

さてかくいう僕も政治学はまったくの素人だ。だからこの本のメインターゲットに入っているのだが、読後感は何だか不可解なものだった。わかったような、わからないような。知っていることを改めて確認したような、そうでないような。ある種の欲求不満があるかもしれない。

この読後感はどこから来るのかといえば、本書のタイトルと内容のわずかなずれにあるかもしれない。本書のタイトルは「国家の役割とは何か」だが、実際に記述されているのは国家の機能の説明であろう。内容的には国家の仕事を「力の体系」「利益の体系」「価値の体系」に大別し詳述するのだが、その記述は機能の羅列であって役割というには程遠い。したがって、読んだあとは実に雑多な知識が並んでいるという印象を与えるのだ。

ただ機能について書いているのだと思えば面白く読むことができる。「価値の体系」関して言えば日本を取り巻く現状をつぶさに見渡すことができる。一言で言えば昨今言われるようなソフトパワーについての説明に多くを割いているため日本のこの分野でのプレゼンスの高まりをよりわかりやすく理解できるだろう。

次は日本の国家論とかそういう感じのものが読めたら幸いだ。

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