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2008年1月

2008/01/27

陰日向に咲く

劇団ひとり原作の映画版だ。作家の方も有名なら出演陣も豪華ということで結構な賑わいであった。

率直な感想を申し上げるのならば面白いことは面白い。実に収まりのいい作品でもある。登場人物も個性的だし言うことない感じなのだが何だか不満なのだ。特に主人公シンヤをめぐるエピソードは広げた大風呂敷を見事に収斂させ脚本家の冴えを見せ付けてくれる感じがする。全体的に見れば秀逸なのだが。

構成が複雑なために次々と切り替わる画面の落ち着きのなさもあるだろう。崖っぷちアイドルみゃーこをめぐる物語とシンヤの物語が交差しないという不可解さもあるだろう。だがそれだけではないだろう。

なかなかうまく言葉にできないのだが、何かが突っかかっている。何か強烈な爆発力みたいなものを感じられない。この物語に出てくる登場人物たちは現状を変える意思を持ち、事実変えていくのだがその現状を怒りを持って見つめているという風ではない。何だかもやもやとした空気が晴れることなく漂い続けているような気がしてならないのだ。

はぁぁぁ。自分で書いていて嫌になる。こんな文章では他人に伝わらんな。おそらく僕が抱く不満はこの映画には尖がった部分がなく、収まりがいいという点にあるんだろう。秀才タイプの作品だとでも言えばいいか。面白いんだけどつまらない。まるで相反する価値が奇妙に同居する作品だった。

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2008/01/07

星新一 一〇〇一話をつくった人

ショートショートの分野で第一人者星新一の伝記である。

600頁弱の分厚い本であるが、ページの最初から最後までスカッとするところが少なく、読了後は何だか切なくなってしまった。

終始一貫しているのは星新一は孤独であるということか。酒の席では随分放言もしたらしいが、編集者や外部の人に見せる極めて紳士的な態度の落差を思うにつけ悲しくなる。接する人によって顔を使い分けることほど悲しいものはないだろう。それは外界に対する自我の強烈な防衛に僕には見えてしまう。ならば防衛したその自我の中身は一体なんなのだろうと考えるとそれはなかなかに難しい。案外空っぽであることも少なくないのだ。

本書で一番衝撃的なのは「人を信用しない人だった」という夫人の言葉だろう。一番身近にいて星新一を見つめ続けてきた人の言葉は重い。確かに星は若い頃、父親の事業を継いで苦労をしたのだろうがそればかりではあるまい。大人になる過程で本来人が身につけるはずの何かを欠落させたまま成長していったためなのだろうと思う。本書の指摘にもあるように兄弟とは離れて育てられたということもあるだろう。だがそれだけでは多分理由のすべてを充たすことはできないと思う。

星新一が自分のルーツを辿るように父と祖父を作品にしたのは特筆に価すると思うのだ。戦後の日本文学で父親というのは母親に比べれば随分比重が軽くなるというのが僕の見立てなのだが、そうした潮流にあって、父を描くというのはどういうことなのだろう。いまだ語られぬ父が巨大な塊となって星新一の作品群の奥に鎮座しているような気がしてならない。

さて、話は変わるが、この本は星新一の伝記ではあるけれども同時に日本のSFの伝記でもある。熱心な一人のマニアから出発していって、星新一という天才を得て普及定着していく様は、同時期に出発した日本漫画の創生を思い起こさせて興味深い。手塚とトキワ荘の仲間はこれまで映像作品にさえなったもので、人々の間に随分広がっていると思うが、同じようなことがSFの世界でも起きていたというのは面白いことだと思う。こういう部分を読むだけでも価値のある本だと思った次第だ。

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2008/01/04

椿三十郎

新年一発目の映画はこの作品であった。去年おととしとろくな作品ではなかったので比較的よいスタートではあるまいか。

もはや説明の必要のない作品である。黒澤を代表する一本であり、この作品以後の日本映画、或いは世界の映画が変わってしまったのだ。特にラストの荒野の決闘シーンは圧巻でハリウッド映画に与えた影響は計り知れない。

そんな作品をリメイクしようというのだからどうかしている。製作者達の努力と冒険心はなかなかのものだと評価せねばならないのだろう。

どうでもいいが最近の黒澤作品のリメイク流行りはなんなんだ?黒澤プロの台所事情が悪いのだろうか?

まあ、それはそれとして。

欠点をあげつらえばいろいろ出てくるのだろう。特に主人公の三十郎をやった織田裕二は三船の幻影を懐かしく思う人々にとっては物足りないものかもしれない。三船よりもはるかに線が細く、現代的なセンスをかもし出す織田は豪放磊落な素浪人のイメージからは遠い俳優かもしれない。

だが画面の中の織田は三船のそれとは違って良き兄貴分といったイメージの新しい三十郎の創造に成功しているのではないか?今回のリメイクは黒澤版の脚本をそのまま用いているから、この新しい人物像の提示は価値あるものだと僕は思う。考えてもみよ、世界中で上演されているリア王はその俳優その俳優のリア王であって一つとして同じものはないではないか。シャークスピア在りし日のリア王ではなく、またそれゆえにダメの烙印を押されることはないだろう。かっちりした作品世界の中で、新たな提示をすることの凄さを僕はかえって強調したいなぁ。

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