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2006/11/19

十二人の怒れる男

本日は雨。どこにも行く気がせず、家でじっとDVD鑑賞だ。今日は十二人の怒れる男である。

密室劇の傑作として映画史に燦然と輝くこの作品だ。もっとも僕はタイトルだけ知っていて中身は見たことがない。

MGMのライオンの雄たけびのマークからのスタートが懐かしい。

物語は父親殺しの犯人として捕まった少年の審議を十二人の陪審員が審議するというシンプルなものだ。陪審員達は服装も年齢もバラバラ。この事件の陪審員に選ばれたという事実一点で繋がっているに過ぎない。まじめに審理をしようという者もいれば、偏見丸出しで有罪にしようとするもの、事件の審理などさっさと終わりにして次の予定に向いたがるものなど実にざっくばらんな男達が集まっている。そして男達は互いに相手の名を知らない。

事件の審理は当初簡単なものに思われた。被告のアリバイは薄弱で、証人の証言は確かなものに思われたのだ。だが陪審員のうちたった一人だけこの事件の審理に疑義を呈する者がいたことから、狭い密室の中の議論は白熱しやがて意外な方向に議論は向っていく。

あらすじを言えばこんなところか。この映画の心憎いところは、暑さと密室と死刑だろう。

暑さは密室に閉じ込められた男達の感情のぶつかり合い、その切迫感を際立たせる小道具だ。額をながれシャツのわきの下をぬらす汗の不快感が時に男達の理性を吹き飛ばす。

密室は当然のことながら他の不純物が入ってこないという物語の純粋さを高めてくれる。何がどうあっても自分達で考え、議論し、決断を下さなければならないという切迫感がそこにはあると思う。

そして死刑だ。被告は17歳の若い少年だ。この少年に命を与えることも奪うことも自分達はできるという責任の重さを痛感しないわけにはいかない。映画の後半、陪審員の一人が偏見丸出しで有罪を主張するが、あのシーンでは陪審員の一人一人が机を離れ、壁を向き或いは窓の外を眺め、彼の主張に耳を貸す者はいなかった。一人の人間の死が偏見によって決められていいはずはないという当たり前の主張がそこにはある。

この映画を見る人によっては、こんな物語はユートピア的で、理想論に過ぎないと感じる人もあるかもしれない。それは僕も思わないでもなかった。たった一人の少年の運命を決めるのにあれだけ白熱した議論を行うものなのだろうかと。さっさと決めてしまえばいいではないか、自分が有罪になるわけでも、死刑になるわけでもないのだから。現実は誠に厳しい。ヤンキースの試合を見に行くんだという軽薄な陪審員がいたが、あるものは仕事に関心が向い、あるものは家族や恋人に関心が向いてもおかしくはない。その辺りを歩いている普通の市民が集まっているに過ぎないのだ。死や法律について真剣に議論したことなど皆無なのだから。

だが、と僕は言葉を継ぎたくなる。他人の運命を決する決定的な場面に遭遇することは人の人生にそうは多くないはずだ。ほんの少しの想像力を働かせれば自分達の行動が決定がどれほど重要な意味を持つのか理解できるはずだと信じたい。そうでなければ社会というものは成り立っていかないと僕は思うのだ。自分ひとりで自分の人生が成り立っていると思う傲慢な人はいるまい。だからこそ僕はほんの少しの想像力を働かせる隣人の存在というものを信じたいと思うのだ。そして僕もまたほんの少しの想像力を働かせる人間でありたいと願っている。

いい映画だった。ぜひ多くの人に見てもらいたいなと思う映画だ。特に若い人、絶対見るべし。

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