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2006年11月

2006/11/21

書きあぐねている人のための小説入門

最初、本屋でこれを見かけレジにもっていった時になんでこんなの買っちゃったんだろうと思ったものだ。どうせよくある小説を書くためのHOW TOものなのだろうとタカをくくっていたのだ。

ところが実際に読み始めて驚いた、単なるHOW TOものなどではなくて、どちらかといえば小説を書くための心構えというか、或いはこの作者の小説観というかそういったものが書かれていた。一流の評論文を読んでいるような気分になった。

この本の帯には「小説を書くために本当に必要なことは?実作者が教える必ず書けるようになる小説作法」などとかかれているが、おそらくこの本を読んでも小説を書けるようにはならないだろう。それどころかこれをまねすると袋小路に入ってしまうような気がする。しかし実際に小説を書く人も、また、それを読む読書人にもこの本に書かれていることは有益なのではないか。なぜならばこの本には小説の技法は書かれていないけど、小説という芸術形式に対する深い洞察が書かれているからだ。

舐めてかかっていた僕が馬鹿だった。もう一度読み返さなくてはならない。自分自身を鍛えるために。小説という表現形式をもっと深く理解するために。

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2006/11/19

十二人の怒れる男

本日は雨。どこにも行く気がせず、家でじっとDVD鑑賞だ。今日は十二人の怒れる男である。

密室劇の傑作として映画史に燦然と輝くこの作品だ。もっとも僕はタイトルだけ知っていて中身は見たことがない。

MGMのライオンの雄たけびのマークからのスタートが懐かしい。

物語は父親殺しの犯人として捕まった少年の審議を十二人の陪審員が審議するというシンプルなものだ。陪審員達は服装も年齢もバラバラ。この事件の陪審員に選ばれたという事実一点で繋がっているに過ぎない。まじめに審理をしようという者もいれば、偏見丸出しで有罪にしようとするもの、事件の審理などさっさと終わりにして次の予定に向いたがるものなど実にざっくばらんな男達が集まっている。そして男達は互いに相手の名を知らない。

事件の審理は当初簡単なものに思われた。被告のアリバイは薄弱で、証人の証言は確かなものに思われたのだ。だが陪審員のうちたった一人だけこの事件の審理に疑義を呈する者がいたことから、狭い密室の中の議論は白熱しやがて意外な方向に議論は向っていく。

あらすじを言えばこんなところか。この映画の心憎いところは、暑さと密室と死刑だろう。

暑さは密室に閉じ込められた男達の感情のぶつかり合い、その切迫感を際立たせる小道具だ。額をながれシャツのわきの下をぬらす汗の不快感が時に男達の理性を吹き飛ばす。

密室は当然のことながら他の不純物が入ってこないという物語の純粋さを高めてくれる。何がどうあっても自分達で考え、議論し、決断を下さなければならないという切迫感がそこにはあると思う。

そして死刑だ。被告は17歳の若い少年だ。この少年に命を与えることも奪うことも自分達はできるという責任の重さを痛感しないわけにはいかない。映画の後半、陪審員の一人が偏見丸出しで有罪を主張するが、あのシーンでは陪審員の一人一人が机を離れ、壁を向き或いは窓の外を眺め、彼の主張に耳を貸す者はいなかった。一人の人間の死が偏見によって決められていいはずはないという当たり前の主張がそこにはある。

この映画を見る人によっては、こんな物語はユートピア的で、理想論に過ぎないと感じる人もあるかもしれない。それは僕も思わないでもなかった。たった一人の少年の運命を決めるのにあれだけ白熱した議論を行うものなのだろうかと。さっさと決めてしまえばいいではないか、自分が有罪になるわけでも、死刑になるわけでもないのだから。現実は誠に厳しい。ヤンキースの試合を見に行くんだという軽薄な陪審員がいたが、あるものは仕事に関心が向い、あるものは家族や恋人に関心が向いてもおかしくはない。その辺りを歩いている普通の市民が集まっているに過ぎないのだ。死や法律について真剣に議論したことなど皆無なのだから。

だが、と僕は言葉を継ぎたくなる。他人の運命を決する決定的な場面に遭遇することは人の人生にそうは多くないはずだ。ほんの少しの想像力を働かせれば自分達の行動が決定がどれほど重要な意味を持つのか理解できるはずだと信じたい。そうでなければ社会というものは成り立っていかないと僕は思うのだ。自分ひとりで自分の人生が成り立っていると思う傲慢な人はいるまい。だからこそ僕はほんの少しの想像力を働かせる隣人の存在というものを信じたいと思うのだ。そして僕もまたほんの少しの想像力を働かせる人間でありたいと願っている。

いい映画だった。ぜひ多くの人に見てもらいたいなと思う映画だ。特に若い人、絶対見るべし。

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2006/11/18

残酷な子供グロテスクな大人

最近は自分のこれまでの趣味になかった本に手を出している。自分のこれまで知らなかった領域のことを知るという作業は実に面白い。なかなか自分の知識が追いついていかない面もあるが、それはそれで面白いと思う。

本書は春日武彦という精神科医が書いた本だ。専門書というわけではなく、随筆風な語り口で僕のような門外漢でもわかるようにはなっている。もっとも深く理解するにはそれなりの知識は必要なのでしょうが。

この本の特徴的なことは実際の事例を数多く採録するというより、文学作品を思考の糸口にしていることがほとんどであるということだ。また同じように作者自身のこれまでの生い立ちから感じたことを思考の糸口にしていることも多い。したがって精神医学的な本ではなく、非常に文学的で、良質の文学批評を読んでいる気分になる。

本書の中心的な課題はイノセントという言葉或いは概念についてであろう。イノセントという言葉から我々が受ける純粋さやひたむきさ、傷つきやすい心といったイメージはたぶんに誤解を含むものだということを作者は明らかにしていく。その過程は読者である僕にとって非常にいたたまれないものだった。特に第5章のU君とY女子のくだりは、僕に冷や汗をかかせた。なんとなればここに出てくるU君とY女子の特徴を自分もまた持っていると自覚しているからだ。まるで裸の自分を見せられるような恥ずかしさだった。僕もまた作者の指摘する「子供という病をおった大人」だったのだ。それは同時にイノセントというイメージを自分の都合のよいように利用する小狡い大人の一人だったという指摘でもある。

いやはや、この世にこんな本があるとは知らなかった。予想外なところで自分の自画像を見せられた気分だった。当分の間は再読したくないなと思わせるほどの作品だった。何事にも動じないタフな神経の持ち主に一読することをお奨めする。

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2006/11/14

陽だまりのブラジリアン

第16回の朝日新人文学賞の受賞作品。

なかなか軽妙な文章を書く人ですな。この本の帯に小川洋子が書いているように細部の描写を積み重ねている、その描写力はまっとうに評価していいと思う。

そうではあるけれども、しかしと続けてしまいたくもなる。

というのも、物語の後半からやけに語り口が早いのである。ちょうどジョセリンのお兄さんが何故か警察に捕まるところぐらいから。このお兄さんは何のために出てきたんだろうと思う。どういうわけか出てきて何にもせず、いきなり警察に捕まってしまうのだ。よく考えたらなんのこっちゃわからない。この小説の決定的な欠陥はまさに後半部分、前半で蒔いた種を後半でろくに刈っていないところにあると思う。せっかく前半で丁寧な描写を重ねていたのに、後半でそれらを生かすことができず、急に色々なことが解決してしまう点にあると思う。要するに後半に向って、物語が深まっていないのだ。

まあ、そうは言いつつもそのような欠陥を補って余りあるほどの勢いというものがこの小説にはある。だから欠陥がそれ程気にならないし、なにより読んでいて楽しい娯楽作だ。

肩の凝らない、楽しい小説だ。生活に笑いが欲しいなという人にはお奨めの小説かもしれない。

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2006/11/13

日本以外全部沈没

観た感想はと問われたら僕は「複雑な気分」としかいえない。というのも予想していたことではあるが、思いっきりB級映画なのである。

B級映画が悪いといっているわけではない。確かに特撮はチープだし、役者が芝居をしている背景もなんだか安っぽかったし、何より首相官邸の室内がただの会議室にしか見えなくてがっかりしたけれど、本当にがっかりしたのはそういう画面の作りではなく、ストーリーのほうである。

僕にはこのストーリーがこんなことがありました、あんなことがありましたという箇条書きの羅列に見えて仕方なかったのだ。4億人も外国人が日本に大挙してやってきて、日本人がそれまでの友好をあっさり忘れて見下し差別するような行動に出るという一種の社会時評のような感じになっているのはわかる。しかし一つ一つの場面のつなぎが悪いのだ。どうしてこんなにエピソードとエピソードがかみ合っていないのか不思議でならなかった。おかげでせっかくの笑いの場面も前フリが生きていないから笑えず、苦笑いになってしまう。しかもこの手の作品は観客に「ああ、確かにそうかも」と思わせなければ映画として成立しないのにそんなふうに思わせられていない。日本人の悪癖、つまり外の世界に対して不寛容という態度をこれでもかと見せられて、内心ムカムカしてしまうのだ。日本はそんなにおかしな国家ではないぞ、といちいち反論をしてしまいたくなるのだ。

せっかく良質のパロディを観られると思って期待していたが、期待はずれだったな。もう一回観たらそれでいいやという気持ちにさせられた、実に稀有な作品であった。

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2006/11/12

笑いの大学

三谷幸喜の脚本、DVDで見た。

この作品は戦時中の検閲体制ネタにしたもので、警視庁の検閲官と劇作家の壮絶な戦いである。とは言ってもそこは三谷幸喜の作品であるから笑いたっぷりなのだが。

作品の構造はシンプルだ。主要キャストは二人しか出てこない。検閲官の向坂、劇団の座付作家の椿。この二人が取調室という密室で繰り広げるコメディだ。

ろくに笑ったことすらない、冷酷な検閲官向坂は上演の不許可を盾に劇団の作家椿に台本に難癖を次々とつける。ところが椿は向坂がつける難癖を上回る笑いを書いてくる。いつしか向坂の要求が皮肉なことにどんどん台本を面白くする方向に向っていき、終いには二人で台本を面白くしているような錯覚に陥る。

ありがちな、といえばありがちなコメディなのだろう。だが二人舞台で観客を飽きさせない作りの作品というのは見かけほど優しくはない。

基本的にこの向坂と椿に与えられている性格は常識と非常識だろう。椿は常識を表し、観客と同じ目線に立つものだ。常識的に考えて向坂の要求は無理難題で「んな、アホな」といいたくなるようなものである。向坂は非常識の象徴である。この関係の面白いところは非常識のほうに絶大な権限が与えられているということだ。生殺与奪の権は向坂が握り、この権にやられたくないと考えるならば、向坂の要求はどんな無茶でも乗り越えていかなくてはならない。現実の社会では常識のほうが生殺与奪の権を握っているものだが、この作品ではそれがあべこべになっている。常識が非常識を乗り越えていく様に面白さがある。

また、この作品には二人の人物が出会うことによる、変化の様が描かれている。それは成長と評してもいいもので、これはどんな作品にも共通して持っていなければならないものだろう。この作品では笑いを否定する向坂の変化がよく書けている作品だろう。倣岸で冷酷な向坂が頭から否定する椿の笑いの虜になっていく様が面白く、それがあるからこそ両者の邂逅が実に印象的で感動するのだ。

最後の椿の笑いに対する考えの独白は三谷幸喜の芸術観が現れているのだろうと思う。また赤紙による大胆な幕切れはあっと言わせるどんでん返しではないか。こんな形で終わるとは僕は思っても見なかった。

実に面白く示唆に富む作品だといえるだろう。劇場で観ればよかったと後悔している次第だ。

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2006/11/09

人間そっくり

僕がこの本を初めて読んだのは大学生の頃のことだから、10年近く前になるだろうか。ある先輩に勧められたのがきっかけだった。その当時どんな感想を持ったか細かいことはもはや覚えていない。今これを再読しての感想は鮮やかということにつきるだろうか?

恐らく難しく論じるならば、この作品の主題は自分で自分を認識するその基盤の脆弱さ、さらに言うならば、自己と他者の境界線の曖昧さということになるのだろうが、そんなことを吹き飛ばすほどの力のある作品だ。僕はこの作品を読んで日本刀の切れ味の鋭さを思い浮かべた。それくらい強烈な切れ味を持った作品だと思う。

物語は極めてシンプルだ。ラジオドラマを打ち切られそうになって切羽詰っている作家とどこにでもいそうなありふれたサラリーマン風の男。作中この二人以外ほとんど出てこない。ほとんどすべて会話で充たされていて、間違いなく地球人だと思っている作家が追い詰められ、やがて自分の存在に懐疑的になる。特にクライマックスの部分、作家がサラリーマン宅に行き、それまでサラリーマンがしゃべっていたことを、今度はサラリーマンの女房相手にそれを再現してみせる手管など鮮やかすぎて、読んでいる僕はぐうの音も出なかった。拍手さえしたい気分だった。

ぜひ一読することをお奨めしたい。案外これを読んでいる人全員火星人だったりして。そんなことを想像して、ニヒヒと笑ってしまう。

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2006/11/05

黒い悪魔

佐藤賢一の佐藤賢一らしい小説といおうか。

佐藤賢一の小説の主人公というのはこうと決めたら誰が何をいってもいっても耳をかさない猪突猛進型で、だけど人好きがして、だけど本人は孤独でという主人公が多いような気がする。「双頭の鷲」の主人公がその才能を王に認められるのを幸福な例とするならば、この「黒い悪魔」の主人公はその才能を認められなかった不幸な例とすべきか。この小説の主人公は文豪デュマの父親だ。

時代はフランス革命の少し前から始まる。フランスの海外植民地、カリブ海に浮かぶ島、コーヒーのプランテーションの奴隷の子アレクサンドルは白人との混血児だ。アレクサンドルは他の奴隷とは違うと自負している。何となればアレクサンドルには買い戻し特約が付けられていて、いつか買い戻されて父に会えることを夢見ているからだ。父はこのコーヒー園の前の持ち主だったのだ。

こんな風にして物語は始まるのだが、時間と空間を一足飛びに飛んでいく佐藤賢一の構成に凝った作りは健在だ。初めて読む人にはとっつきにくいかもしれない。だが物語りはフランス革命が勃発し、やがてナポレオンの登場となり主人公は否応なく、巻き込まれていく。あまたの挫折を乗り越えていく姿は、一種のヒロイズムをも感じさせて痛快といえる。ロベスピエールの死刑執行シーンなどは虚実入り混じって読むものをニヤリとさせる。

佐藤作品の一つの特徴と言えるのではないかと僕は思っていることが一つあるのだが、それは肉親との深い断絶ではないかと思う。この小説の主人公は父親との関係に悩んでいる。肉親に認められたいという幼い頃の欲求を抱えたまま大人になり、どれほどの活躍をしても心が充たされないという心の飢餓感の源泉になっている。一見かっこよく颯爽としていてもこの飢餓感のために、主人公は次々に現れる困難をものともせずに突き進んでいく。それが読者をあっといわせるし、かつ悲しさや悲壮感を感じさせることにもなり物語に引き込まれてしまうのだ。この小説の主人公もそういった人物として造形されている。

しかし面白い小説だった。一気に読ませる小説だ。この感覚はたぶん男にしかわからないだろうと思う。女性がこの本を読んでどう言うだろうか?そんなことを思いながら読了した次第だ。

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2006/11/03

思想の身体 愛の巻

率直に言って難しい。僕のような初学者には何を言っているのかさっぱりわからない。コンチクショウ!と思いながら読んだ。

巻頭の末木文美士の漱石の解説は正しいのだろうかと思った。僕は漱石はろくに読んだことがなくなんともいえないのだが。この論文はジェンダーを基礎にして漱石の作品群を時代順に解説しているのだが、なんとも気色悪いというか。この気色悪さはどこからくるのだろうと思いながら読んでいた。

たぶん、いや本当にたぶんなのだが、ジェンダーが捉える世界観というのは「闘争」なのではなかろうか。それは男と女の闘争で、比較的女のほうに肩入れをしているのではないだろうか。女性が時代時代によってどのように処遇されてきたかを考えることはけっしていけないことではないと思うのだが、闘争と捉えられると違和感を感じてしまうのだ。なぜなら現実世界の男と女は闘争ではないと僕は感じるのだ。僕の感覚では闘争ではなく戦友という感覚を持っている。両性にとっては時代とは常に世知辛いもので、その時代に生きていく男女としてはともに手を取り合い戦っていくしかないと思うのだ。当然その時代その時代によって与えられた役割は男と女によって違う。だがジェンダーというのは男を女にとっての壁と規定しているように思うのだ。本当の敵は時代なのに。ここらあたりのギャップを僕は気色悪いと感じているのだと思う。

まあ、なかなか難しい本です。続きを読むかどうかはまだ決めてませんが。

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ナチョリブレ

現在静岡市は大道芸ワールドカップ開催中である。多くの人出で賑わっていたが僕はそんなことには背を向けて一人黙々と映画館に。ナチョリブレを観るためである。

こんな日であるにもかかわらず意外とお客さんが入っていた。さすがに満杯というわけにはいかなかったが座席の7割程度は埋まっていたのではないだろうか?

映画の印象は「ああ、もったいない」である。素材はすごくいいのだ。しかしその料理の仕方がなんともまずい。ありていに言えばつまらないのだ。

孤児院を併設した修道院の料理番を勤めるイグナシオはろくな材料も手に入らず粗末な食事を子供達にさせていた。なんとかして良き料理を出したいと思っているのだが肝心のお金がない。イグナシオ自身もへまばかりしているさえない男だ。そんな日常を過ごしていたある日、新しくエンカルナシオンという若く美しい修道女が赴任してくる。イグナイオは勿論一目ぼれ。

ある夜、いつもの通りチップスを貰いに街まで出かけると、猫のような俊敏さを持つ男にチップスを丸ごと奪われてしまう。肩を落として修道院に帰ろうとする道すがらイグナシオは覆面レスラーのラムセスの派手な姿を目撃する。自分との境遇の違いに愕然とするがふと見るとアマチュアの大会のポスターを発見する。これだ!これしかない!!イグナシオは修道院ではプロレスはご法度であることを承知のうえで、この大会に参加することを決意する。

翌朝、イグナシオは猫のような俊敏さを持つ男を冗談みたいな方法で捕獲に成功、いよいよ大会に参加するのであった。

こんな感じで物語りは始まるのだが、エンカルナシオンを演じた女優さんのきれいさばかりが印象的で他のことは全然面白くない。こんなに面白くする要素が満載なのにどうしてこんなにつまんないのか実に不思議だ。

(余談だがこの女優さん、日本の長谷川京子に似てるなと思った。本当に余談だ)

コメディの場合各国で笑いのコードが違うということはあるだろうが、それでもここまでひどいと何だか残念だ。

何といっても良くないのはイグナシオを取り巻く人々の印象が薄すぎる。猫のように俊敏な男スティーブンはリングに上がるとからきしダメというのはいいのだが、あの俊敏さを生かした何らかの活躍をさせてもいいのにと思ってしまう。それに美しいエンカルナシオンとの恋のライバルの修道士のおっさんもライバルになりきれていない。そもそも登場回数が少なすぎる。またラムセスというのも途中のパーティーのシーンでいきなり悪役になり一貫していない。何もかも中途半端で未消化なのだ。

もったいない映画だと思う。よく日本のお笑い芸人がハリウッドより日本の方が笑いのレベルは高いというが、この映画に関して言えばそれは当てはまる。もう少しネタを掘り下げないと。すべての登場人物がステレオタイプ的に見えてしまうのはいただけない。

もったいない、それがこの映画の感想だ。

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