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2006/04/17

平家物語

ここのところ仕事が忙しくなかなか本を読めないでいた。やはり年度末というのは忙しいものですね。そして仕事が一段落してから読み始めたのが平家物語であった。今回は岩波から出ている新日本古典文学大系の中の平家物語上・下を読んだ。

以前に僕は新潮社の日本古典集成に入っている平家を読んでいるのだが、今回は集成とは違う底本の平家を読んでみようと思ったのだ。

本文異同に関しては専門家の方に聞いて欲しい。集成で使われている底本とは確かに入っているエピソードやその順番、本文そのものが違っているのはわかったが、それを詳細に追跡するのはやはり専門家に任せたほうがいいだろう。ここでは深くは論じない。ただ集成と今回の新体系の印象の違いとして、僕は新体系の方がスマートに感じられた。洗練されているとでも言うのだろうか、集成は荒々しさが感じられるのだが、新体系は小奇麗さを感じる。僕の好みとしては新体系はスマートではあるがどこか物足りなく、集成の荒々しさのほうが好きなのだが。これは人によって好き好きなのだろう。

「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」とは新中納言知盛の壇ノ浦における最後の言葉であるが、この短いセリフに凝縮された自分に降りかかるすべての運命を厭うことなく受け入れ、抗うことをしない精神の強靭さは例えようもなく美しい。眼前で展開される一門の人々の入水は地獄絵図の何者でもないであろう。とりわけ一門の期待を一身に受けた安徳帝はわずか8歳の子供でしかなかった。そのような幼い者さえも死なせなければならなかった自らの罪深さを自覚しないではいれられなかっただろう。だからこそ新中納言知盛は運命に抗わないのだ。「見るべき程の事は見つ」とは自らの罪深さに対する罰なのだ。自らに降りかかる運命の全てを受け入れることが罪に対する唯一の贖罪なのだ。

暗愚と評される一門のリーダー宗盛の滑稽な姿を見よ。入水することをためらい、挙句の果てに後ろから兵士に突き飛ばされて海に落ちる彼はひたすら我が子に対する情愛に眼をふさがれた男だった。もちろんそれはそれで彼の姿はひどく人間的で好ましいものであり、憎むべき人物ではないのだが、彼は彼自身の罪深さに気づくことはない。自らに降りかかる運命から逃れようと必死なのだ。まわりの兵士がどう思っているかなど頓着しないのだ。そんな彼に回ってくる運命は壇ノ浦を生き延び、都を引き回され、頼朝という勝者に会わせられ、斬られるという惨めな役どころなのだ。

思えば平家物語に出てくる印象的な人々、源三位頼政、以仁王、木曽義仲、今井兼平、小宰相、瀬尾、これらの人々も自らの運命を抗わなかった人々だ。気高い精神性を保ち自らの人生の軌跡を自覚している人々ではなかったか?だからこそ彼らは美しいのだ。

そして彼らはすべて敗者である。敗者こそがすべての美しさを独占するのである。勝者が荒々しさを演じることはあっても決して美しさを備えないのは、運命を甘受する態度を備えていないからだろう。それは一門の滅亡を見ることなく、勝者のまま死んでいった清盛を見ればわかるだろう。勝者は敗者から美しさを奪うことができず、奪うことができないからこそ勝者は勝者でいられるのだ。

勝者とは美しい敗者の上に成り立つ存在なのである。

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