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2006年3月

2006/03/26

今さらながらのWBCの感想&西遊記の感想

今週はWBCの話題が日本のマスコミを占拠してしまった。僕も普段は野球などちっとも見ないのに、決勝戦は見てしまった。職場でも話題になったのだから、野球世界一という事実は一つの事件だった。

全体を考えてみれば何とも劇的な勝利であった。予選リーグで韓国に負け、アメリカに負けもはや死に体だと誰もが思った時、メキシコという神様が日本を決勝トーナメントに連れて行ってくれた。しかもその相手が2連敗していた韓国とは!もしも野球の神様がいるとするならば、粋な演出をするものだ。

決勝戦もハラハラさせられる展開であった。6対5の一点差に追い上げられた時、誰しもコりゃいかんと思ったのではないか?9回の表、たしかワンアウト一・二塁ではなかったかと思うのだが、あそこで日本の至宝とも言うべきイチローの打順が回ってきたのは天の配剤としか言いようがない。あそこがイチローの正念場だった。テレビにかじりついていた誰もが「イチロー打て!」と念じたはずだ。そしてあそこで本当にイチローがタイムリーを放ったとき、僕はイチローってスゲーと思ってしまった。ごく単純にスゲーと思ってしまった。あんなプレッシャーの中をよく冷静にヒットを打てるものだと、そのタフな精神力に脱帽した。あのヒットは僕にとって忘れることができないヒットになったと思う。こんな試合を見せてくれたキューバと日本の選手と、なぜか日本の休日に決勝戦を組んでくれたアメリカに感謝したい。

でも、どうして平日に決勝戦なんか組んだんだろう?アメリカも休みだったのかな?

西遊記は20日が最終回であった。視聴率もなかなか良かったらしい。月9という時間帯に全く新しいジャンルに挑戦したフジテレビの気概はまず評価すべきだと思う。だが、内容は・・・・・。

以前にも書いたが、孫悟空と三蔵法師の立場が逆転してしまっている。しかも毎回、毎回悟空の決め台詞が説教くさくて適わなかった。

もしかしたら僕は夏目雅子のあの西遊記にこだわりすぎているのかもしれない。新しいものを作ろうとしたらああいう形になるしかなかったのかもしれないと思っている。

どうでもいいが、毎回のギャグはとても面白かった。やはり日本人はディティールを作らせたらうまいなと思わざるを得ない。それだけに全体の悟空と三蔵のキャラクターをもう少し考えて欲しかったなと思う。

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2006/03/13

ヨーロッパの乳房

作者の澁澤龍彦の名を知ったのはほとんど偶然だった。

彼が亡くなってしばらくたってから僕は大学進学のために上京したのだが、上京してすぐ池袋のデパートで彼の展覧会みたいなものをやっていた。彼の使っていた書斎を再現したりとか彼の生原稿だとかそういうものを展示していたのだ。僕はそれまで澁澤龍彦の名前さえも知らなかったが、その展覧会のポスターに惹かれて見に行ったのだ。随分と人が多かったのを覚えている。こんなにたくさんのファンがいるんだなぁと感心したものだ。展示品の中にフランス人形があったように記憶している。こういうものを好む男性というのはいったいどんな奴なんだろう?と思ったものだ。

以来、澁澤龍彦は気になる人であった。その間全集が発売され、話題になったりしたがなかなか読む機会がなく、とうとうここまできてしまった。澁澤の作品を読むのは今回がはじめてである。

さて、本書は紀行文である。1970年に初めて作者はヨーロッパ旅行に出かけるのだがそれについての文章である。はっきり言って前半はちっとも面白くない。面白いのは後半である。

前半の面白くなさは、読んでいる僕にも責任があるかもしれない。というのも前半の文章は知識が先行し全くついていけなかったからだ。後半は僕のような浅学の者でもついていけるように噛み砕かれた文章になって後半のほうが印象深い。

秀逸なのは「わたしの処女崇拝」と「自分の死を自分の手に」であろう。

「わたしの処女崇拝」は処女という一つの価値を論じたものだ。「女の性(セックス)とは、だから、欲望するところのものではなく、欲望されるところのものである」という原理に立脚し、「ウェヌス原型」という言葉を用いながら処女の神聖がどこからやってくるかについて述べている。処女について僕は単に肉欲的なイメージでしか捉えていなかったから、この評論は驚きであった。処女に対する人間の非常に深く、また、太古の記憶からやってくる畏怖の感情があるというのは、今まで考えてもみなかった新鮮な考えであった。新しい目を見開かされた。

「自分の死を自分の手に」は機知に飛んだ小説である。従来からある生命保険に変わって安楽死保険というものを売りに来るセールスマンと主人公の会話録である。現代社会のモラルを生命保険という言葉に託してそのモラルに懐疑の思いをこめて、安楽死保険というあべこべなものを提出している。自分の死さえもままならない現代の社会の現状を「ブルジョワ的道徳」ということばであらわしているが、この考え方に頷けないこともない。個人主義の時代といわれて久しいが、この個人主義の時代は案外窮屈であることも確かだ。個人主義とは言いつつも誰かが作ったシステムに依存しなければ生きることすらままならない。日常の食事だってスーパーやコンビニといった誰かが作ったシステムに依存しなければならないのだから。個人主義とは本当に個人主義なのだろうか?

安楽死保険は生きたいように生きるという人間のささやかな希望の比喩なのではあるまいか?窮屈なシステムに絡めとられた人間の解放を意味しているのではなかろうか?僕はそんな風に思ったのだがどうだろう?

初めての澁澤龍彦体験であったが、知的興奮を換気させる人物であるかもしれない。これ以外にもいくつか読んでみたいと思った。

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2006/03/07

マオ 誰も知らなかった毛沢東 上下

ねえ、聞いてよ

ねえ、聞いてよ

僕は怪物を見たよ

僕は怪物を見たよ

驚いたことにこの怪物は赤い衣さえもまとってはいなかったんだよ!

本書は中国に誕生した怪物の一代記である。僕はこの上下巻に及ぶ長い、長い物語を読んでたった一つの感想しかもてなかった。

「えげつない」

これだけである。ページをめくるたびに死人の山が築かれていくような錯覚にとらわれざるを得ない。これほどまでに人命が軽んぜられる国家とは一体何なのだろうか?しかもこれが意味のある死ならばまだしも、権力者による自己保身の招いた死なのだからやりきれない思いがする。

本書に描かれる怪物と怪物を支えた権力機構の本質を著者はたった一行で表している。

「共産党による統治はつねに殺人を続けていかないと不可能であることが明らかになり、すぐに処刑が再開された」(上 P187)

戦慄すべき一文ではないか。殺人を必要とする統治とはなんなのだ?それは統治とよべるのだろうか?

共産主義思想を核にしてこの政権は誕生したと僕は単純に思っていた。当然イデオロギーに基いた政策が実施されたものだと僕は単純に思っていた。たとえその政策が失敗したとしても、何らかの筋は通っているものだと思っていた。政治に携わる者は自らの理想とするイデオロギーの実現に向けて努力しているものだとばかり思っていた。しかし読めども読めどもちっともイデオロギーの話は出てこない。出てくるのは権力闘争と自己保身と栄達の話ばかりだ。理想に燃える人間など一人もいないかのように。あのイデオロギー全盛の時代はなんだったのだろう?イデオロギーは人間の欲望を糊塗するただの衣ではなかったか。人間は時代が進めば進むほど賢くなるのではなく、自らの欲望を何かに見せかける嘘がうまくなっただけではないのだろうか。そんな気持ちをこの醜悪な怪物から受けた。

読了して最初に思いを馳せたのは、現在の中国だ。これだけの大混乱を引き起こし、天文学的な人命を失わせたこの怪物を現在の中国では未だ建国の父として敬っている気持ちの悪さに僕はおぞ気がする。何となれば、この建国の父の神話は壮大なフィクションなのだ。そのフィクションの中に国民を閉じ込めようとする現在の政権を担う人々のあざとさに僕はあきれるほかない。フィクションは所詮フィクションにすぎないというのに。

本書は議論かまびすしいものでもある。専門の人々から本書の掘り起こした新事実に疑義が寄せられているようだ。僕は歴史家でもなければ、政治学徒でもなく、思想家でもないため真偽を論ずることはできない。多少割り引いてこの本と付き合うことが必要になろう。唯一つだけいえるのは国家とはなにか、あるいは国家の欺瞞が国民に何をもたらすのかということを考えるきっかけになるのではないかと思う。

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2006/03/05

県庁の星

書店でこの作品の原作本を見たとき映画になるんじゃないかと思っていたがやっぱり映画になった。ちなみにまだ原作は読んでいません。

比較的きれいにまとまっていた作品だと思う。わかりやすいストーリー、わかりやすい映像、わかりやすい人物の設定、誰でも知っているスターの出演、どれをとっても文句のつけようがないのだ。しかしどうもいただけない。なんとなく不完全燃焼のような気持ちがしてしまう。面白いことは面白いのだが、だからといって夢中になれるかといったらそうでもない。月並みな感じがしてしまうのだ。

なぜだろう?

ストーリーは県庁のエリート官吏が民間との交流でさびれたスーパーにやってくる。官吏は民間の智慧を勉強するといっておきながら、決して官僚的な仕事の進め方を捨てようとはしない。民間のスーパーもどうせそんなこったろうと思って官吏とは距離を置いている。だが双方は問題を抱えている。スーパーは在庫の山を抱えこれをどう扱っていいかわからない。消防署からの査察で不備を指摘され営業停止寸前まで追い込まれる。官吏は自分が立案した巨大プロジェクトが無事進められるか心配でならない。物語は双方の智慧を生かしながら問題解決に立ち向かっていく。

スーパーエーリートがあるいは貴種が何かの事情で流離して場末の寂れた場所にやってくる。そこで昔のやり方が忘れられず、その場末で地元の人々と摩擦を起こしていく。だが、何らかのきっかけでやがて双方がお互いを理解しあうようになり双方に立ちはだかる壁を乗り越えていく。

こういった作品は大体こんな感じで話が進むわけで、この作品も見事にそれを踏襲している。この手の物語は無数にあり、これからも無数に作られていくのだろう。

僕がこの作品を不満に思うのは定型にきっちりはまりすぎていることではないかと思う。目新しさがどこにもなく既視感があるということだ。オーソドックスな作品は見ていて安心感があるが、だからといってそれに安住してはいけない。何らかの工夫は常に必要であると思う。

工夫といえばスーパーという場所にも言える。実は僕らはスーパーにはよく行く。もちろん客としていくのだが、自分の周りの人でスーパーでバイトしていたなんて人は多いだろう。学校を舞台にしたものもそうだが、皆知っている場所を舞台とするのはなかなか難しいものなのだ。下手な嘘はつけないし、だからといってそれを忠実に再現しても仕方がない。なかなか難しい場所を選んだと思う。

また官吏が心を開くきっかけは官吏の挫折であるが、その挫折は二つのことから成り立っている。一つは官吏がプロジェクトから外されたこと、それに伴い恋人から別れを告げられたこと。もう一つはスーパーで自分が企画した弁当がさっぱり売れなかったことだ。基本的にこの作品は二つの場所、県庁とスーパーで物語が進められている。よくあることだがこういった形は物語が分散しやすい。三谷幸喜を見ていればわかるだろう。三谷作品は基本的に場所を変えることがなく一つの場所で物語を進めていく。こうすることによって物語の分散が防げるのだ。この作品ではその手は使っていない。はっきりと二つの場面を振り分けている。だからといって官吏が心を開くきっかけを二つの場所にまたがって作っていいわけがない。物語の密度が下がってしまってはいけないのだ。

しかしこの作品は及第点を与えてもいいのではないだろうか?そこそこ面白いし。だからといって今年のベストテンにはとてもじゃないが入らないとは思うが。

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