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2006/02/13

単騎千里を走る

約3週間も我がブログを放っておいてしまった。久しぶりにパソコンの前に向う。

さてこの長い期間に見た映画の感想を記録しておこう。今回は「単騎千里を走る」である。

日本国最後の銀幕のスター高倉健の主演映画である。日本映画華やかなりし頃を知る映画スターであることは今さら言うまでもないだろう。そして、今でも多くの映画ファンが無条件で愛している稀有なスターでもある。

その高倉健もかなりの高齢となった。新作がいつまで見られるかわからない。見られるうちに見ておかなくてはいけないスターだろう。

見たのは先週の日曜日であったが、驚くほど観客が少なかった。固定客である中年の人々が中心であったとはいえ、ここまで少ないかと驚いた。だがそんな中でも若い観客もちらほら見られた。ちなみに僕が見た座席のすぐ後ろは若いカップルであった。健さんの神通力は今でも健在なのかと思った。

内容だが、実に淡々としていた。これといって大きな山場があるのではなく、また登場人物も特に個性的というわけでもなく、いまどき珍しいくらいの淡々とした映画であった。これでは若い観客をたくさん呼ぶのは難しいといわざるをえない。

仲たがいしている父と息子、息子の不治の病に犯されることにより、父は息子のために息子の研究テーマである中国仮面劇の「単騎千里を走る」を撮影しに行く。

この映画で面白いのは父と息子の仲たがいの原因が全く示されていないというところにある。仲たがいという現実のみが示されていてその現実が前提となって物語が進められていいくのだ。当たり前のことだが普通はこういうことはしない。というのもこういう手法は観客を混乱におとしめる効果を持ってしまうからだ。

物語の発端となる原因の提示というのは実は大事なもので、この映画の場合、この親子が仲たがいしている深刻さの度合いというものを計りかねてしまう。見舞いに来た父親を息子が拒絶することでその代用としているが、しかしこれはなかなか伝わりにくいのではなかろうか?父は中国に旅立つが、父の行動の源泉は息子との仲たがいにあるのに、深刻さを計りかねるので、父が息子と仲直りしたいという強い希求になんら説得力を与えることができていない。

僕は映画を見ながら志賀直哉の「和解」を思い出していた。この小説は息子のほうの話であったが、この作品もまた、仲たがいの原因をほとんど描写していなかった。それがゆえに僕は腑に落ちない、感想を抱いたものだ。

まさか中国人であるこの監督が和解を読んでいたとは思えず、偶然の一致なのであろうが真に面白い一致と思った次第である。

さてこの映画の特徴的なことは、日本が舞台の時は日本人監督に撮影を任せていたことである。おかげで画面の質がまるで違い、統一美を失っている。作風の違う監督をよくもつかったものだと思う。

最後に中国人にとっては高倉健は間違いなく、外国人であり、そんな人を主役に据えて映画を撮るのは中国人には大変であったのではないかと思う。その冒険心は褒めてやらねばならないと思う。

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