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2006年2月

2006/02/24

白洲次郎 占領を背負った男

読みたい読みたいと思いながらなかなか読めなかった本だ。だがよくよく考えるとなぜ読みたいと熱望したのか、まったく思い出せない。

思い出せないといえば本作の主人公白洲次郎を僕がどうしやって知ったのかも思い出せない。なにかの雑誌の記事で読んだのだろうが、それが全く思い出せないのだ。

というわけで読んでみた。奥さんである正子はエッセイストで知られているし、僕もそれくらいは知っている。

一読して思ったことは何とも形容しがたい人だということだった。間違いなく政治家ではない。官僚でもなければ、財界人でもない。いわゆるジャンルに当てはまらない人。それが白洲次郎だ。どうでもいいがどうやって収入を得ていたんだろう、この人?

本書の中で圧巻だったのは憲法制定の舞台裏だろう。アメリカに押し付けられた憲法であり、非常に短期間で製作されたものであることは知ってはいたが、ここまでひどい成立過程をたどっていたとは正直驚きだった。その渦中にいた次郎をはじめとした日本人のきもちはいかばかりか。確かに戦争には負けたけれども、国家の根幹さえも自由にいじくられるというのははなはだ気分が悪い。この憲法を改正できていない子孫である我々は、当時の人々にどんな顔をすればいいのだろうか?

プリンシプルという言葉を初めて知った。日本語に直せば原則というものになるようだが、もっと深い言葉であるように思う。

先日ホリエモンが逮捕されて話題になったが、おそらく彼はプリンシプルからはもっとも遠い男ではなかろうか。プリンシプルという言葉は原則を通すことによって生み出される気品というものを含めた言葉であると思う。思えばホリエモンに最も欠けていたのはこの気品であったと思う。

次郎はこの言葉をモットーに生きていた。ダンディと形容されることが多かったようだがそれは恐らく気品があったればこその事なんだろうと僕は思う。

今ではかなわぬことだが、一度くらい話してみたいと思う人物だ。

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2006/02/20

PROMISE

月曜日でしかも雨降り。寒くて映画館に行くのが億劫なくらいだがせっかくの休みをもったいないと思い直し、出かけてきた。

客の入りは散々で、広い劇場に20人程度だった。客層なんていってもこれでは判断のしようがない。もっとも平日だから中年層が断然多かったように思うが。

「さらば我が愛/覇王別姫」で巨匠になってしまったチェン・カイコー作品であるが、今ひとつな感じがした。

そりゃあね、衣装は美しかったよ。画面も迫力があった。アクションだって派手でかっこよかったかもしれない。何より出演した俳優の熱意は素晴らしかったと思う。ただ、ストーリーテラーとしての能力がどうなんだろう?

一人の貧しい少女が満神という神様に出会って、「世の中の全ての男から望まれる姫にしてあげましょう。そのかわりあなたは一生本当の愛を得ることができない」と約束するところから物語りは始まるのだが、この物語の始まりは実にワクワクさせられる。この少女のその後の人生がどうなるか、俄然興味が出てくるが、その後がいただけない。物語の冒頭で少女に興味を持たせたくせに、その後の物語は少女の物語ではないのだ。

その後の少女は傾城という美姫になるのだが事実上物語りは光明という戦に強い大将軍を中心に物語が進められていく。ではこの物語は光明と傾城の悲恋の物語なのかといえばその通りではあるけれども、その通りではないとも言える。なにせおいしいところは全部光明の奴隷が持っていってしまうのだ。

要するに人物の配置がイマイチな映画なのだ。本来主人公になるべき人がならず、登場人物の主従が間違っている。多くの登場人物の背景を描こうとして余計なところに力が入りすぎ観客に主従の混乱を招かせている。これでは観客は物語に入り込めない。

僕はこの映画を傾城に絞って物語を構築すべきではなかったかと思う。そうすれば余計な物語がすっきり整理されて面白くなっただろうに。冒頭部の出来がよかっただけに、惜しまれる結果となった作品である。

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国家の品格

タイトルがいかついので難しい内容の本なのかなぁと思っていたのだがそんなことはない。わずか数時間で読み終えてしまった。

本書の主張を一言で表すならば、「過去の日本の姿を取り戻せ」ということになると思う。武士道を中核とした日本に伝わる精神性(本書の中では情緒と形と表現しているが)が今世界中に蔓延する文明病を救うと考えている。

著者は欧米の文化文明とは論理で築き上げた文化であると断じている。先進国に共通する病理つまり伝統を軽んじ、歴史を振り返らない態度は、人工的に作られた知の体系を重視しその国に独自に伝わる国柄というものを破壊してしまった。90年代から怪物のように暴れまわっている、グローバリーゼーションが効率を追求し最も経済的なシステムを提供しているかのように見えるが、それは世界を均一化しグローバリーゼーションを提唱するアメリカ化をもたらす。ゆえにその国の国柄を破壊し尽くしてしまい、その国の国民が力を失っていくと論じている。

なるほどこの辺りの主張は日本の読者には気持ちのいいものだろう。

この著者の個性的なことは、論理という知の体系、言い換えれば科学というものに全幅の信頼を置いているわけではないということだろう。著者自身が科学者であるにもかかわらず。

著者は論理の重要さは認めつつも、論理そのものに懐疑の目を向けている。あまりに人工的で非人間的だと考えているのだろう。読者にはこの主張は衝撃的な感情でもって迎えられるのだろうが、しかしよくよく考えればこの主張は目新しいものではないかもしれない。

というのも我々は科学の破綻を既に見てきて、歴史的事実としてよく承知しているからだ。例えば経済発展に伴う数々の公害病、地球の環境破壊、核兵器の大量保有による平和。科学とは論理そのものの学問であり、その科学が人間に災厄をもたらしたのだ。

人文科学といってもいい、社会科学と言ってもいい、我々の社会に深く根付いた論理とはこの科学に似せて作ったものなのだ。我々が論理に酔ってしまうのは論理が科学のように見えるからなのだろう。我々は科学が必ずしも人間に幸福をもたらしてくれるとは限らないということをよく知っているくせに、そして科学技術の発展に警戒感を持っている(たとえばクローン技術とか)くせに、社会に蔓延する論理=科学に無条件の帰依をしている。それは滑稽と断ぜざるを得ない。著者はそのことに意識的か無意識的か気付いている。

著者が武士道を梃子にして情緒と形と表現する日本の古来の姿、いうなれば原日本に立ち返れと主張することは面白いと思う。科学の破綻が起きたとき、科学は新しい科学を創造するのではなく、調和を目指して動いていた。社会に巣食う論理に対し、新しい論理を創造するのではなく、原日本に立ち返ることで調和を目指すというのは意義深いことなのではないだろうか?

賛否両論あるだろうが、論理に対する態度を学ぶ上ではこの上なく質の高い良書と呼べるのではないだろうか。一読することをお奨めする。

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2006/02/17

語られなかった皇族たちの真実

ゲームの合間、合間に細切れに読んだので、かなり変則的に読んでしまった。本当はきっちりとやっていきたかったのだが。

この本は昨今話題の皇室典範改正問題に焦点を絞っただけの本ではない。むしろそれ以外のことに多くの紙面を割いている。

具体的に言えば、戦前、戦中、戦後の様々な皇族たちの生き方を通して日本における天皇制とは何か?ということを述べた本であるといえる。

最も印象的なのは、開戦までの動きの中で、和平に力をつくした高松宮のことだろう。当時皇族の中でも対米戦は推進派と批判派に別れていたらしい。しかも戦前の男子皇族というのは明治天皇の考えもあって、伝統的に全員が軍人であったから軍のかなり高度な情報を知ることのできる立場にあったらしい。

またいざ終戦が決まり、前線に天皇の聖旨を伝達に行くことも興味深かった。よく日本のポツダム宣言受諾後の武装解除がスムーズに行ったということが言われるが、その裏には皇族たちの命を掛けた任務があったというのはもう少し、たくさんの人が知っていて言い事実なのではないだろうか?過小評価してはいけない事実ではないかと思う。

さて男系か女系かという議論であるが、作者は明確に男系を支持している。伝統という言葉でこの考えを議論しているが、現代のクールな国民にこの伝統という言葉が果たして通じるかと思う。巧妙な論理を持つ意見でないと誰も振り向かない。そんな風に思った。

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2006/02/14

龍が如く

ブログを3週間近く放り出して何をしていたのかといえば、もちろん私用が忙しかったというのもあるが、そのほとんどはこのゲームに費やされていた。

僕は普段はゲームなどはほとんどやらないことにしているのだが、職場の人に無理矢理借りさせられて、しぶしぶプレイした。

ほとんど義務感でやるゲームほど辛いものはない。僕は本当は本を読みたかったのだが・・・・・。

そんな後ろ向きな態度ではじめたゲームではあったが、意外と面白かった。ストーリーはたいしたことはなかったが、何といっても主人公の男気溢れる造形が惹かれる作品であった。

また新宿の描写のそっくりなこと!よくもまあここまで作ったと、正直舌を巻いた。

お勧めといえるかどうかはわからないが、面白かったのは確かだ。

そうそう、真鍋かをりさんはこの主人公に惚れたらしい。確かに頷けるところはある。

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フライト・プラン

ジョディ・フォスター主演の映画である。前評判のほうはどうだったのだろうか?客の入りはまずまずであった。

なんといってもこの映画はアイディアが秀逸だ。密室である旅客機の中で我が子が誘拐される。どこにも隠れるところがないのに娘はちっとも見つからない。まわりの乗客たちに聞いても皆知らないといい、主人公は自分の記憶のほうが間違っているのではないかとあべこべに思ってしまう。しかし主人公は娘がいたことの痕跡を発見して、俄然見つけ出そうと努力する。

ハリウッドらしい娯楽作ではないか。そう思うのだが、しかしアイディアの秀逸さが生かしきれていないように思った。

主人公はこの旅客機の設計者であり、誰よりもこの機について詳しい。娘の痕跡を発見した後、俄然見つける気になって、技術屋らしい方法で追跡者を巻くのだが、この辺は見ていて面白かった。普段は絶対に見ることができない航空機の内部を見せてくれるし、ヒーローの面目躍如だ。自らの持つ知識で奇想天外な方法で危機を脱するのは見ていて胸のすく思いがする。

しかし、物語は後半尻すぼみになる。機体が着陸してしまうのだ。前半の面白さは上空にあってどこにも出られない密室劇にあったのだと思うのだが、着陸してしまうと密室でもなんでもなくなる。おかげで緊迫感は半減し、面白みのない作品になってしまうのだ。

ハリソンフォードにエアフォースワンという作品があったが、あれはほとんど上空の話であった。上空にあるというのが緊迫感を生む、絶好の調味料になっていたのだが、この作品ではそれがどこかに消し飛んでしまっている。

思うに、この作品の製作者は航空機の先端部分は少々の爆発にも耐えられるというようなことを知っていて、どうしてもそれを入れてみたくなったのではないかと思う。だがそれは余計な知識のひけらかしではないかと思う。緊迫感を半減させてまで入れるべきではなかったと思うのだ。物語の全てを上空で行うべきであったと思う。

アイディアが秀逸であったのに実に惜しい作品にしてしまったと思う。

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博士の愛した数式

話題の小説の映画化ということで期待を込めて見に行った映画である。客の入りはまあまあというところか。想像していたほど多くはなく小説ほどには期待感のない映画なのかななどと思ったりもした。

見た感想は可もなく不可もなくというところか?凡庸とまでは言わないが、さりとてきらりと光る個性もなかった。

この映画の時間経過の表現の仕方がなんとも古臭いなんて、どうでもいい事を思ってしまった。時間経過を表現するため、風景とか草花を写すというのはよくある手だが、この作品はそれがずいぶんたくさん使われていてうんざりだった。あんなにたくさん風景のショットを入れるくらいなら、きちんと話を切り回して欲しかったと思う。脚本の技術に難点があるかも。

小説とは違いこの作品ではルートが狂言回しの役を背負う。数学の先生になったルートが教壇で生徒に博士の思い出話を話しながら、数学の講義を行うというものだ。やはり小説をそのまま映画にするには難しい点があったということなのだろう。

一つ苦言を呈するとすれば野球の取扱いだろう。小説では博士が野球場にいくという緊張感が、外界との関係を遮断して生きてきた博士の境遇を知らしめる効果があった。またそれゆえに阪神の試合を見に行って熱を出すという因果もきちんと描かれていたが、映画では野球場に行くという緊張感もなく、なぜ博士が熱を出したのかという因果が示されていない。観客はなんで博士に熱が出たのかイマイチわからなかったのではないか?こういう雑な仕事はしてはいけないと思う。

全体的にみて、あまり個性的な作品ではなかったと思う。これといった面白みにも欠けると思う。もっと冒険してもいいのではないかと思った次第だ。

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2006/02/13

単騎千里を走る

約3週間も我がブログを放っておいてしまった。久しぶりにパソコンの前に向う。

さてこの長い期間に見た映画の感想を記録しておこう。今回は「単騎千里を走る」である。

日本国最後の銀幕のスター高倉健の主演映画である。日本映画華やかなりし頃を知る映画スターであることは今さら言うまでもないだろう。そして、今でも多くの映画ファンが無条件で愛している稀有なスターでもある。

その高倉健もかなりの高齢となった。新作がいつまで見られるかわからない。見られるうちに見ておかなくてはいけないスターだろう。

見たのは先週の日曜日であったが、驚くほど観客が少なかった。固定客である中年の人々が中心であったとはいえ、ここまで少ないかと驚いた。だがそんな中でも若い観客もちらほら見られた。ちなみに僕が見た座席のすぐ後ろは若いカップルであった。健さんの神通力は今でも健在なのかと思った。

内容だが、実に淡々としていた。これといって大きな山場があるのではなく、また登場人物も特に個性的というわけでもなく、いまどき珍しいくらいの淡々とした映画であった。これでは若い観客をたくさん呼ぶのは難しいといわざるをえない。

仲たがいしている父と息子、息子の不治の病に犯されることにより、父は息子のために息子の研究テーマである中国仮面劇の「単騎千里を走る」を撮影しに行く。

この映画で面白いのは父と息子の仲たがいの原因が全く示されていないというところにある。仲たがいという現実のみが示されていてその現実が前提となって物語が進められていいくのだ。当たり前のことだが普通はこういうことはしない。というのもこういう手法は観客を混乱におとしめる効果を持ってしまうからだ。

物語の発端となる原因の提示というのは実は大事なもので、この映画の場合、この親子が仲たがいしている深刻さの度合いというものを計りかねてしまう。見舞いに来た父親を息子が拒絶することでその代用としているが、しかしこれはなかなか伝わりにくいのではなかろうか?父は中国に旅立つが、父の行動の源泉は息子との仲たがいにあるのに、深刻さを計りかねるので、父が息子と仲直りしたいという強い希求になんら説得力を与えることができていない。

僕は映画を見ながら志賀直哉の「和解」を思い出していた。この小説は息子のほうの話であったが、この作品もまた、仲たがいの原因をほとんど描写していなかった。それがゆえに僕は腑に落ちない、感想を抱いたものだ。

まさか中国人であるこの監督が和解を読んでいたとは思えず、偶然の一致なのであろうが真に面白い一致と思った次第である。

さてこの映画の特徴的なことは、日本が舞台の時は日本人監督に撮影を任せていたことである。おかげで画面の質がまるで違い、統一美を失っている。作風の違う監督をよくもつかったものだと思う。

最後に中国人にとっては高倉健は間違いなく、外国人であり、そんな人を主役に据えて映画を撮るのは中国人には大変であったのではないかと思う。その冒険心は褒めてやらねばならないと思う。

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