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2006/01/01

キング・コング

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

さて、新年1発目から映画の話題である。今年もバリバリ見ていくぞ!

今年の正月映画は低調だなと思う。見たいと思う作品がラインナップされていない。正月過ぎてからのほうが、三谷作品や高倉健さんの作品が待機していて、そっちのほうが面白いような気がする。

それはさておき、キングコングである。たいして期待してもなかったが、やっぱりねという感じであった。確かに映像は迫力があってすごかったが、もはや僕らの目には見慣れてしまったというべきものだろう。あまり感動はしなかった。これが10年前だったら喝采を浴びていたろうに。ちょうどジュラシックパークのように。

ストーリーのほうも何だか味気ない気がした。未知の島に住まうキングコングとの出会いなのだがこれも何だか既視感が邪魔をして面白みがない。また美女とキングコングが心を通わすのだがこの手の話もずいぶんいろいろなところで見てきたような気がする。

物語のラストキングコングが死んでビルから落ち、興行主が「美女が野獣を殺した」というセリフがあるのだが、思うにこれが全く生きていない。このセリフには色々な隠喩が隠されているのだろうが、それが指し示すものが全くわからない。私見だがこの映画におけるこのセリフの位置づけとは次のようなものではなかったかと思うのだ。

この作品における美女とは人間を意味するだろう。ここでいう人間とは洗練された文明を持ち、人間が自然を征服するという従来の価値観を代表するものだ。作品中船のクルーが島の原住民を無慈悲に殺していく場面があるが、銃という文明の利器で原住民を制していくのは象徴的である。また、映画クルーが原住民の子供をチョコレートで釣ろうとするのもそのあたりの人間の傲慢さを反映しているように思う。それに対して、キングコングは荒ぶる自然を象徴しているのだろう。美女を助けるため船員と映画クルーは島の奥に足を踏み入れ多くの犠牲者を出して苦労するのだが、そこでは文明はろくに役に立っていない。美女はキングコングの手の中で守られ数々の危機を乗り越えるのだが、美女はその危機に対してなんら主体的に行動することはない。むしろすべてキングコングの手の中で守られ放しなのである。人間が自然を完全制覇するのは無理だというのが、この映画の最初の論点なのである。

そんな人間とキングコングが、つまり文明と荒ぶる自然が心を通わすというのは一種の理想的なユートピアであろう。だがそのユートピアはもろく崩れていく。

キングコングはアメリカにつれてこられここで大暴れをしてしまう。命さえ落とすのだが、キングコングが荒ぶる自然を象徴するならば、アメリカにつれてこられたキングコングは自然世界から切り離された存在と定義できると思う。自然世界から切り離されたキングコングは自然の中にいたのと同じように美女を手の中に守ったまま大暴れする。だがその意味は前の意味とは違う。文明は美女を救うため、町を守るため全力でキングコングを倒しにかかるのだ。キングコングは文明にとって許されざる異邦人という定義づけをされてしまうのだ。そこでは文明の論理が幅を利かせ、自然の論理は生きる術がない。ましてや心を通わすというユートピアなどかけらも存在しない。人間が自然を制するのは善とされてしまうのだ。

「美女が野獣を殺した」とは文明と自然の相克を象徴的に表しているのだと思う。今ハリウッドでこの映画が製作されたのはアメリカにおける文明の定義づけが変わりつつあるのかもしれないと予感させる。ただ、それはそれほど自覚的でもなく、劇的に変わるということもないのであろう。過渡期の中で作られた映画といえるのかもしれない。

美女を演じたナオミ・ワッツは美しい人であった。清楚な美しさがあり、過剰なエロチックさを感じさせない。本当に美しい人である。

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