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2006年1月

2006/01/17

西遊記その2

2回目の放送であった。何だか今期はこのドラマを見てしまいそうだ。ついつい心の中で子供の頃見た、夏目雅子の西遊記と比べてしまうのだが・・・・・。勝手に比べられてしまう出演陣には申し訳ないことだと思ってしまう。

今回は僕は途中から見たので、感想も何もないのだが、どうも説教くさくて嫌になる。特に悟空が猪八戒に怒鳴りつけ、叱り飛ばすところなどなんだかなぁ、と思ってしまう。西遊記の実質的な主役は孫悟空であったとしても、旅をするグループ内では三蔵法師が先生で迷える三人の弟子を教え導くという役回りなのだ。三人の弟子は三蔵という先生に教えを受ける生徒であり、成長、要するに変化していくというところに西遊記の感動があると思うのだが、この作品では、悟空が先生役をやってしまっている。乱暴者生徒の役回りと先生役を同時にやるのだからいただけないこと、この上ない。

人物関係の位置づけをもう少し考えたほうがいいように思う。

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2006/01/15

THE 有頂天ホテル

公開されたのが昨日であったから、今日はとんでもなく込んでいた。最前列までお客が入っていたのだから驚く。僕自身はあまり人ごみが好きではないが、こんなふうに劇場が満杯になっている姿を見るのは楽しい。またこの映画はまさしく老若男女別なく、見に来ていた。世代を超えて楽しめる映画というのは、映画の理想的な形なのだろう。

しかし豪華な出演陣だ。日本を代表する俳優がこれでもかと言うほどに贅沢に出演している。これだけの俳優を集めることができるのは三谷幸喜くらいなものか。

さて、映画の感想なんだが・・・・・・。確かに面白かった。度々笑わせてくれたし、グランドホテル形式を使って、様々な人間の様々な人生模様を切り取ると言うのは、魅力的だし、何より、この形式の作品の作り方と言うのは物語が散漫になりがちなのに手堅くまとめてあって、三谷幸喜の才能の豊かさを感じさせてくれる。それはそのとおりなのだが、なんだか不満が残る感じでもある。

どうしてこんな風に思うのか自分でも不思議なのだが、ただ僕が思うに、物語の密度が関係しているのかもしれない。通常僕らは主役がいて、脇役がいて、その主役の物語をじっくり腰を落ち着けて見る、と言うことを常にしている。当然スポットライトが当たる人数が限定されているから、物語の密度は濃くなる。しかしこの作品はそういうものではない。この作品のグランドホテルという形式は、いうなれば群像劇の一種であり、しかも通常の群像劇というのは何か一つの組織なり、団体なりにスポットが当たるものであり、その組織や団体は一つの方向を向いているものだ。スポーツ物のチームの構成員(勝利のために困難に立ち向かう)を考えれば考えやすいだろうか?

しかしこの作品の場合は、というよりグランドホテル形式というのは、てんでお互いに関係ない人の人生模様を切り取るため、それぞれの登場人物は一つの方向を向いているわけではない。悪徳政治家と腹話術師では方向性は共有できないのだ。したがって一人の人間の人生をじっくり描くということはできなくなり、一人一人の描写は希釈される。恐らく僕が抱いた不満というのは、希釈された描写からくるじっくり感とかずっしり感とかがないことに起因しているのだと思う。

しかしよく作ったものだ。筆耕係という通常見慣れない職種や、ホテル探偵(パンフを読むと実際にこういう人がいるらしい。保安課というらしい)といった実際に足を運んでみなければわからないような職種の人まで描いているのだから、たいしたものだと思う。何よりすごいのは説明セリフが少なかったことだ。この辺りはきちんと評価してあげるべきだと思う。

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2006/01/10

西遊記

フジTV、月9の新ドラマ西遊記の一回目を見た。もっとも、冒頭のシーンを見逃してしまったのだが。

今回は牛魔王の話であった。ただ、なんというか・・・・・。たしか牛魔王の話は芭蕉扇が出てくるのではなかったか?今回は出てこなくて、なんだか拍子抜けしてしまった。ドラゴンボールでもこれが出てきたのだから出しときゃいいのにと思ってしまった。

香取慎吾の孫悟空よく似合っていた。衣装と金髪とあいまって実にかっこよかった。いままで、みた孫悟空の中でもっともかっこいいのではないか?

女性が三蔵法師をやるというのは、あの夏目雅子の路線の踏襲なのだろう。僕は小学生の頃再放送の奴を一生懸命見た。あのときの西遊記の影響力はすさまじいのだな改めて思った。結局日本で作られる西遊記は今後もあの路線を踏襲していくのだろう。それがいいことなのかなんなのかよくわからないが、中華圏では恐らく日本のような三蔵の作り方は考えられないわけで、そういう意味では、日本製西遊記を海外に持っていったときのインパクトの強さは、強烈なのだろうと思う。

多分、今後もこのドラマ見ちゃうんだろうな。もし見たらレポート書きます。

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2006/01/01

キング・コング

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

さて、新年1発目から映画の話題である。今年もバリバリ見ていくぞ!

今年の正月映画は低調だなと思う。見たいと思う作品がラインナップされていない。正月過ぎてからのほうが、三谷作品や高倉健さんの作品が待機していて、そっちのほうが面白いような気がする。

それはさておき、キングコングである。たいして期待してもなかったが、やっぱりねという感じであった。確かに映像は迫力があってすごかったが、もはや僕らの目には見慣れてしまったというべきものだろう。あまり感動はしなかった。これが10年前だったら喝采を浴びていたろうに。ちょうどジュラシックパークのように。

ストーリーのほうも何だか味気ない気がした。未知の島に住まうキングコングとの出会いなのだがこれも何だか既視感が邪魔をして面白みがない。また美女とキングコングが心を通わすのだがこの手の話もずいぶんいろいろなところで見てきたような気がする。

物語のラストキングコングが死んでビルから落ち、興行主が「美女が野獣を殺した」というセリフがあるのだが、思うにこれが全く生きていない。このセリフには色々な隠喩が隠されているのだろうが、それが指し示すものが全くわからない。私見だがこの映画におけるこのセリフの位置づけとは次のようなものではなかったかと思うのだ。

この作品における美女とは人間を意味するだろう。ここでいう人間とは洗練された文明を持ち、人間が自然を征服するという従来の価値観を代表するものだ。作品中船のクルーが島の原住民を無慈悲に殺していく場面があるが、銃という文明の利器で原住民を制していくのは象徴的である。また、映画クルーが原住民の子供をチョコレートで釣ろうとするのもそのあたりの人間の傲慢さを反映しているように思う。それに対して、キングコングは荒ぶる自然を象徴しているのだろう。美女を助けるため船員と映画クルーは島の奥に足を踏み入れ多くの犠牲者を出して苦労するのだが、そこでは文明はろくに役に立っていない。美女はキングコングの手の中で守られ数々の危機を乗り越えるのだが、美女はその危機に対してなんら主体的に行動することはない。むしろすべてキングコングの手の中で守られ放しなのである。人間が自然を完全制覇するのは無理だというのが、この映画の最初の論点なのである。

そんな人間とキングコングが、つまり文明と荒ぶる自然が心を通わすというのは一種の理想的なユートピアであろう。だがそのユートピアはもろく崩れていく。

キングコングはアメリカにつれてこられここで大暴れをしてしまう。命さえ落とすのだが、キングコングが荒ぶる自然を象徴するならば、アメリカにつれてこられたキングコングは自然世界から切り離された存在と定義できると思う。自然世界から切り離されたキングコングは自然の中にいたのと同じように美女を手の中に守ったまま大暴れする。だがその意味は前の意味とは違う。文明は美女を救うため、町を守るため全力でキングコングを倒しにかかるのだ。キングコングは文明にとって許されざる異邦人という定義づけをされてしまうのだ。そこでは文明の論理が幅を利かせ、自然の論理は生きる術がない。ましてや心を通わすというユートピアなどかけらも存在しない。人間が自然を制するのは善とされてしまうのだ。

「美女が野獣を殺した」とは文明と自然の相克を象徴的に表しているのだと思う。今ハリウッドでこの映画が製作されたのはアメリカにおける文明の定義づけが変わりつつあるのかもしれないと予感させる。ただ、それはそれほど自覚的でもなく、劇的に変わるということもないのであろう。過渡期の中で作られた映画といえるのかもしれない。

美女を演じたナオミ・ワッツは美しい人であった。清楚な美しさがあり、過剰なエロチックさを感じさせない。本当に美しい人である。

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