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2005年12月

2005/12/31

2005年映画・書籍ランキング

2005年も今日で最後である。ちょうどいい機会だから今年目にした映画、および書籍のランキングなどを書いてみたいと思う。あくまで僕が見たものの範囲で選ぶので、何であれが入ってないの?とかランキングから洩れてる!とかいろいろおっしゃりたい方はいるであろうがあくまでも僕の独断と偏見で選んでいるので許して欲しい。ベスト5位までを選んだのでこの正月DVDでも見ようかな、本でも読もうかなという人は一つの参考にしてみてはいかがでしょうか。

ところで今回の記事でちょうど100本目となる。3月31日にこのブログを始めてよく途切れなかったものだと自分でも感心してしまう。今まで12086人の方が読んでくださった。ありがとうございました。

書籍

1位 博士の愛した数式 小川洋子

2位 雨恋 松尾由美

3位 バッテリー あさのあつこ

4位 ミカドの肖像 猪瀬直樹

5位 龍樹 空の論理と菩薩の道 瓜生津隆真

今年は上下巻本も含めれば22冊読みました。決して多いわけではない中から以上の5冊を選んだ。僕は買ってきた本は2回読むことにしているので、冊数はあまり多いほうではない。

1位の博士の愛した数式は文句なく完成度が高い。何度読んでも泣けるだろう。多くの人に勧めたい本だ。

2位の雨恋はミステリーとしての完成度は高いほうではないのかもしれないが、幻想的な美しさを備えた作品である。いつか映像作品になるのではないかと思っているのだがどうだろう?

3位のバッテリーは少年の成長過程を通して友情や家族の関係、悩み、孤独感が描かれている。大人になっても心が熱くなる作品である。

4位はタイムリーな話題の時に出されたものだ。しかし近代天皇制の本質に迫ろうとしている作品であり、衝撃的事実に何度も直面する本である。ぜひ読んでいただきたい。5位は仏教を完成の域にまで高めた僧侶の理論と生涯である。難解な論理ではあるのだが、絶対に征服してやろうと思わせるものである。

映画

今年は30本の映画を見た。実際の配収はどうだか知らないが、質としては珍しく洋画のほうが低調で邦画のほうが高かった。話題作も多く、スターウォーズ、NANA、電車男、宇宙戦争、亡国のイージスなどがあった。ハリウッドが何を題材としていいのかわからないという、悩みがよく現れた一年ではなかっただろうか?なんにせよ日本の映画ファンには邦画の勢いを取り戻したという事実は実りの多い一年であったには違いない。

洋画

1位 チャーリーとチョコレート工場

2位 コープス・ブライド

3位 オペラ座の怪人

4位 大いなる休暇

5位 宇宙戦争

選ぶのに苦労した全体的にレベルが低い。5位の宇宙戦争など入れるべきではないと思うのだが、他に選びようがなかったので選んでしまった。

1位、2位はティム・バートン&ジョニー・デップ作品である。1年の間にこのコンビの作品が2本も見られるのは幸せなことだ。僕は今年の主演賞はジョニー・デップにあげたいのだが。ちなみに助演賞にはチョコレート工場に出てきた、インド人のちっちゃいおっさんにあげたい。

3位は豪華絢爛さが売りの作品。チャーンチャラチャラチャーンが耳から離れない。

4位は有名スターがまったく出ていないにもかかわらず実に味わい深い作品である。カナダのフランス語圏の映画だ。ぜひぜひ見ていただきたい作品である。

邦画

1位 電車男

2位 ALWAYS 3丁目の夕日

3位 男たちの大和

4位 いらっしゃいませ患者さま

5位 妖怪大戦争

逆に邦画は選ぶのに苦労した。ここには出ていない阿修羅城の瞳、タッチ、春の雪、NANA、鳶がクルリとなどはぜひとも入れたかった。

1位は秋葉原のキスシーンが美しかった。そして日本中の男がエルメスに理想の女性像を見たのではあるまいか?また、ネットという文字で表現される空間を映像にしたという表現形式の苦労も評価すべきであると思う。

2位は一位と甲乙付けがたい。本当に良い出来で脱帽した。笑いと感動が合わさり、他のお客さんと味わったあの幸福な時間を僕は忘れまい。ロクちゃんをやった堀北真希に新人賞である。

3位は現在公開中の映画。自分が日本人であることを再認識させてくれる作品。東映らしいスケールの大きな作品であるともいえる。中村獅童の怪演に主演賞をあげたい。反町も良かった。

4位はアイディアの面白さを買った。もう少し遊んでもいいような気もしたが、それでも面白い作品であることに間違いはない。

5位は子供が見る作品であるにもかかわらず、ちっとも子供におもねらない作風が良かった。また役者の個性がこれほど光る作品もなかった。トヨエツ、ナイナイの岡村さん、栗山千明どれも素晴らしかったが、なんといっても菅原文太。あれほど生き生きして「小豆は体にええどぉー」と叫んでいる姿に驚いてしまった。主演の神木君も将来の豊かさを感じさせ、楽しみな存在である。

来年もたくさん本と映画に触れたいですな。やっぱりこういうものに触れるのはいいもんです。

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男たちの大和

日本人なら誰もが知っている戦艦の名前。アニメになって宇宙にも行ったっけ。当然ストーリーもよく知られており、今さらどうこう言うことない作品だ。言ってみれば定番の作品だと言える。

のっけから涙腺が止まらなかった。仲代達也が鈴木京香の訴えを聞いて船を出すべきか逡巡するところからもうダメだった。やはり僕は日本人なのだと痛感した次第。戦闘シーンなど見ていられない。悲しくて切なくて、日本人がこの戦艦の物語を得たことはその倫理観、道徳観、思想の形成に大きな意味があるのではないかと思う。

あの悲惨な戦闘シーンに一種の神々しさを見つけてしまうのいけないことだろうか?必死になって戦い、次々に戦死者を出してもその屍を踏み越えて機銃にすがりつく戦闘員の姿を愚か者と断ずることのできるものがいるだろうか?極限の、絶望的な状況の中で国を思い、故郷を思い、家族を思い、恋人を思い一機でも敵戦闘機を打ち落とそうとするその志をバカな戦争をしたと言って断罪することができようか?

物語のラストは日教組が喜びそうな結論で締めくくられていた。「とにもかくにも戦争は良くない。」だが、その結論は大和の物語とは相容れないものではなかろうか?かつてほどではないが、この国は自己否定の重い病にかかっている。日本人であることを否定するような奇怪な病が流行し、定着し、しかも正しい信仰であるかのように受け継がれようとしている。だが、大和の特攻は僕たち子孫に自己否定をするための材料を与えるために行われたのだろうか?

大和を含めた先の大戦の日本人の必死の抵抗は、自立して生きていくというテーマに集約されるように思う。自立を脅かされるということはそれまで日本人がつむいできた歴史、伝統、文化、習慣を脅かされるということにほかならない。そしてそれらは日本人が日本人らしく生きていく上で必要な要素であり、その要素を破壊されてはもはやそれは日本人とは呼べないのだ。そしてその必要な要素が国家というシステムによって守られている以上、国家の独立が脅かされている時は、日本人が日本人であるために日本人は戦うのだ。

戦後の自己否定の風潮は日本人を解体する作用しかなかった。そしてその風潮はある程度まで成功したが、しかし完了はしなかった。

戦後の自己否定の風潮は極めて単純な問いから導かれた解ではなかったかと僕は思っている。それは「どうして我々は負けたのか」という問いであったと思う。そして極めて単純な問いは極めて単純な解を導き出したのだと思う。「日本人だから負けたのだ」と。いわゆる進歩的知識人たちはその解を左巻きの思想によって脚色していった。それは複雑で玄妙で、魅惑的でさえあったのだろう。だが進歩的知識人たちは間違っている。進歩的知識人たちも日本人である以上、日本人が日本人らしくあるための要素から逃れることはできない。したがってその解はその問いに負けている。なぜならばその解は日本人的要素を多分に含み逃れることができないからだ。完全に日本人を解体された進歩的知識人ならばその解に説得力ある脚色をつけることができるのだろうが、そんなことができる者は日本にいるわけもない。

最近になって朝日新聞や日教組に代表される左巻きの思想は急速に衰えている。それは昨今の極東アジア情勢に刺激を受けたものであるといえるだろうが、同時に日本人の解体に成功しなかったという事情も加味されるのではないかと思う。我々はようやく左巻きの時代から脱却し、「どうして我々は負けたのか」という問いの真実の解を求めることができる時代が来たのではないかと思う。よく日本はあの戦争に向き合っていないというふうに言われるが、ようやく我々は我々自身の手であの戦争に向き合わねばならない時代になったということだ。恐らくその解は厳しい現実を突きつけることになるのだろうが、その現実から目をそむけてはいけないのだと思う。それが雄雄しく散った英霊たちの子孫の責任だと思うのだ。

ところで、今回の主人公中村獅童は怪物的な演技であった。歴史に残る名演技であったと思う。素晴らしかった。また反町隆史は僕は今まで全く評価していなかった。GTOの時代からこいつは大根だと思っていたが久しぶりに見て、認識を新たにした。彼もまた新兵の兄貴的存在として確かな演技を披露していた。素晴らしかった。

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2005/12/11

SAYURI

話題の昭和初期を描いたハリウッド映画である。少なくとも、欧米人による無責任な東洋への幻想が描かれていなかった。時代考証もしっかりしていた。かなり研究してこの映画を作ったのではないかと思う。それはやっぱりすごいことだとおもうのだ。評価すべきことなのだろう。

全体的に画面が暗かった。ヨーロッパ映画を思わせる暗さであった。曇天と言っていいのだろう。スカッとした明るさが全くなかった。晴れ間は2回。子供の頃会長に出会うシーンとラストシーンの会長と結ばれるシーン。監督さんの狙いがあってこういう色調の画面を作ったのだろうが、はっきり言ってこういう画面をずっと見せられるのはいささかくたびれる。

さてストーリーは無理矢理、置屋につれてこられた女の子が一流の芸者になっていく物語である。作りとしては古典的とも言える作り方をしていて、ライバルの芸者がいて、主人公はライバルと相当水を空けられているが、突然名コーチが現れてあれよあれよという間に追い抜いていく。憧れの男性がいてその人のことをずっと思い続けているが、憧れの男性の親友に愛を告白され大弱りに弱ってしまう。でもなんだかんだと言って憧れの男性と結ばれてしまう。

端的に言ってコメントのしようのない、平凡な作りの映画である。特に目新しいところは何もない。女の戦いに重く比重が置かれていたけれども、それほど面白くはなかった。ブッちゃけて言えばTVの“大奥”の方が面白いかもしれない。

思うにこの小説、或いは映画がヒットしたのは欧米人の間で最も有名にして最も謎の存在でなおかつ現代日本に未だ存在している“ゲイシャ”を描いたからだろうと思う。この“ゲイシャ”は欧米ではかなりエロチックな幻想とともに語られていたのではないか?ところがこの作品はそのような幻想をきっぱり拒絶して、気品ある“芸者”を描き、イメージの崩壊に成功したのではないかと思う。常識の破壊はどの芸術分野でもワクワクさせられるものだが、SAYURIはまさに欧米人が持つ“ゲイシャ”の常識を叩き壊し全く新しい位置づけで“芸者”を描き、新しいイメージを作り上げたところに革新的な意味合いがあったのだと思う。

しかしそれは欧米のみで通用する革新ではないかと思う。日本人には通用するまい。そもそも“芸者”がそんなエロチックな存在であるとは思っていないし、根本的に一見さんお断りの“芸者”が抱けるとは思わないものなのである。要するに「あんた今さら何言ってんの?」という感じなのだ。この作品に何の目新しいものがないと感じるのはその辺りのギャップにあるのではないか思うのだがどうだろう?

ところで深作監督の作品に「おもちゃ」という作品がある。僕は深作作品の隠れた名作ではないかと思っているのだが、同じく若い芸者の一人前になるまでのストーリーであるが、この作品は先輩芸者の悲哀まで描かれていて、ある意味群像劇になってもいた。一人の人間の成長物語としてはSAYURIよりこちらのほうが上であると思うのだがどうだろう?SAYURIを見た後ぜひともこの作品を見ていただきたいと思う。

ところで舞台は京都であった。本来は芸者ではなく芸妓というべきなのではと思った。

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