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2005/08/07

電車男 原作版

映画を見て、テレビを見て、原作を読むという全くの逆コースをたどった電車男ではあった。

まとめのサイトを読んだ後に原作本を読んだので、新鮮さはなかった。というのもあのまとめのサイトと内容はほとんど変わっていないように思う。最後の章は原作本に付けられた特典だったのだろう。ここでエルメスが電車男の来歴と自分との付き合いの歴史を知るというのはなかなか面白いと思った。楽屋話というのはそれなりに面白いものなのだ。

この作品については映画版でも、テレビ版でも感想を述べてきたし、いまさらとやかく言うつもりはないが、いくつかの点で述べさせてもらうとすれば、紙とコンピューターと大衆との関係だろう。

ネットというものが進歩してあらゆる情報の送受信が可能になったのは今さら語る必要もないくらいだ。この電車男の話もそういった技術の向上があってこそうまれたものだと思う。多くの人が熱狂し、2ちゃんねるに集まり盛り上がったという事実はネット社会の深化の度合いを測る上で非常に大切な出来事なのではないかと思う。

しかし、僕は思うのだが、電車男が爆発的に支持されたのがいつだったのかということを考えると、それは書籍になってからだと思う。愛すべき我らが電車男は書籍にならなければ一部の人々にのみ共有される伝説でしかなかったのだ!ネットが駆逐できるだろうと思われていた既存メディアの力がなければ電車男は圧倒的な支持を受けることがなかったのだ。

よく言われるようにコンピューターを持つ人と持たない人の情報の格差ということを僕は言いたいのではない。電車男を書籍で読んだ多くの読者は若い人が多かったのではないかと思う。その多くの若い人は自前のPCを持ち、それを扱う能力も意欲もある人々ではないのか。その多くの若い人は電車男の存在を知らなかった、現に僕も書籍化されるまで知らなかったのだ。

情報格差があるのではない。情報に中央と地方の問題があるのだ。ネットでは自分の興味のあるものしか見ない。またその範囲はおそらく極端に狭い。電車男の書籍化は本来自分が持っている興味には引っかからないが、それに隣接するような興味だったのだろう。或いは、興味があったとしても、なんらかの理由で検索には引っかかってこなかったということなのだろう。

また情報の中央と地方はどこが中央だとはっきりとわかるものがない。しかも中央は動く可能性がある。ある時期にはここが中央であるかもしれないが、また別に時期にはあそこが中央になっているかもしれない。したがって自分が今読んでいる掲示板なりHPなり、ブログなリが全体のどこに位置しているのかわからなくなっている。自分の寄って立つ位置がまったくわからないでネットを楽しんでいるのだ。今回の電車男の書籍化の持つ意味は、他メディアの中に電車男を投げ込むことによってそれが一体なんなのか、という位置づけを行うことができたことにあると思う。

話題になった8チャンネルの買収騒動で、渦中の主役の一人は既存のメディアは今までと同じことをしていたら滅ぶとか、ネットの情報量、スピードにはかなわないと言っていたように記憶しているが、僕の目にはこの男がおかしくて仕方ない。既存メディアの情報の伝播力というのはネット社会がどれほど進化しようともかなわないのだ。そしてその伝播力は情報を位置づけるという力まで持っている。それは情報のスタンダードの提示ということになるのではないか。そして僕らはその提示を必要としているのではないか?そのことがちゃんとわかっているのだろうか?わからないとすればこの男は愚か者として断罪するしかないように思う。既存メディアは今でも情報の王様であるし、これからもそうであるのだ。

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