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2005/07/29

電車男・テレビ版その4

4回目も見てしまった。普段ドラマは見ないのにもはや、生活の一部となってしまった。

今回はサーフィンをめぐる話である。っていうかネットサーフィンを普通のサーフィンと間違える人がいるかね?と突っ込みたくなったが、ま、その辺りはご愛嬌。

今回のタイトルをつけるとしたならば、「正直」ということになろうか。エルメスの過去、妻子もちの男にだまされて云々の話と、サーフィンができず、正直にそれを告白する電車男の話は対照をなしていてそれがどうなんだと言われたら、どうなんだろう?わかりやすいのはいいことだけれども、それがあざといといわれたらよろしくないような気もするのだが・・・・・・・。

いいシーンだと思ったのは、電話ボックスのシーンか。あの辺りの心理描写というのは日本人らしく、繊細だなと思った。ただちょっとくさいような気がしてしまうのはいたしかたない。

もう一つよかったのは、オタクの友達が電車男の妹に会うシーン。兄の友達の本性を一発で見抜き彼が使ったタオルをゴム手袋で掴み、木の棒に引っ掛け燃やしてしまうのはなかなか笑えた。今回彼女は一言もセリフがないにもかかわらず、印象的なシーンだ。彼女の役はおいしいぞ!

今回は原作にはない創作部分であった。しかもこの創作部分、女の子の勘違いにそのまま乗ってしまった男が辻褄合わせに奮闘するという、実に古典的な創作部分であった。陳腐という言葉が頭に浮かんでしまうのはいけないことなのだろうか?もう少し何とかしようがあったものを。

最近のはやり、っていうか「ショムニ」いらいではないかと思うのだが、短いショットを多用して笑いを作っていこうとするものが多いような気がする。それがこの電車男で成功しているかといえば、微妙なところといわざるをえないのではないか。「ショムニ」はショムニを快く思ってない人々やなんとかして潰そうとしている人々との対比を効果的にテンポよく見せるにはこの手法は効果的だったが、電車男にはこのような対立概念が希薄であるように思う。周辺人物にはいろいろあるかもしれないが、基本的にエルメスは電車を嫌っていないという根幹部分での対立がない。従って短いショットを積み重ねても、その時々の人物の描写が散らばっているだけで、統合力が全くない。僕はそんなふうに思うのだ。

根本的に電車男のもっとも面白い部分は映画でも原作でも同じだが、エルメスという滅茶苦茶高いハードルを、オタクという滅茶苦茶さえない男がどうやって越えていくかというところにあるだろう。従ってエルメスの素性ははっきりしないし、またそのほうがハードルの高さがかえって強調されて面白いのだ。周辺の事情を切り捨てることによってハードルの高さが強調されるのだ。しかしテレビ版はエルメスの素性をはっきり描いている。もちろん今でも高いハードルではあるのだが、エルメスが電車男を嫌っていないという時点でこのハードルは幾分低くなっている。テレビ版がイマイチな作品に甘んじているのはこの理由によるものだろうと僕は思っている。ひょっとしてテレビ版は作り方を間違えているかもしれない。もっともまだ道半ばだから、そういう判断を下すのは早すぎるだろう。

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