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2005年7月

2005/07/31

蛇姫様

実は今日は2本も見てしまったのだ。2本立ての上映かと思っていたら1本づつ料金を支払えだと、その商魂に恐れ入るよ。

で蛇姫様なのだが、なんじゃこりゃ。っていうのが感想。今日びテレビでもこんなのはつくらんなぁ。

内容は記すまでもないが、一つ言えるのは細かいディティールがいい加減すぎやしないかということだ。主人公の生家が焼けたり、父親と妹が死んだりとなかなか盛りだくさんの内容だが、一つ一つのエピソードの整合性がきちんとしていないため、「なぜ姫様が犯人じゃないとわかる」とか「悪人の悪事がこんなに簡単に露見していいのか」とかいろいろ突っ込みたくなる。クオリティはあまり高いとは言えないな。

ご都合主義という言葉がぴったりの作品だった。しかしパンフによればこれは雷蔵がやりたかった作品らしい。しかも戦前のヒット小説で映画にもなり、それのリメイク版だという。

思うに後の松竹ヌーベルバーグとかそういった人々は、こういうのが嫌いだったのではないか。今日見られるような、リアリズムのかけらもない作品なのだ。日本映画の沈滞はこういった作品がハリウッドから入ってくる、作品群に対抗できなかったからかもしれない、なんて思ってみた。ま、私見ですけど・・・・・・・。

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弁天小僧

市川雷蔵にはまってみようなんて前回書いてしまったが、本当にはまったようだ。今日もみに行った。弁天小僧である。

タイトルはよく知っているけど、内容は読んだことがないという本や、映画ってよくあるものだが、この弁天小僧もタイトルしか知らない作品だった。

前回は眠狂四郎を見たので今回の雷蔵には驚いた。なんか雷蔵見るたびに驚いているが驚いたのだから仕方ない。眠狂四郎は絶望的な孤独感を漂わせていて、全く人を寄せ付けない感じがしたものだが、今回の弁天小僧は仲間もいて絶望的な孤独感というのは感じない。どちらかというと陽気な感じのするキャラクターだと思う。そういう極端な人物を演じ分けることができるのだから雷蔵ってのはすごい人なのだと思った。

内容はというと、遠山の金さん(勝新太郎がやっている!)も追っている弁天小僧一味が腹黒の旗本をやっつけるというのがその筋立てなのだが、江戸情緒たっぷりの町の中を走り回る姿は微笑ましい。身軽という設定なのだろうがなんか屋根に登っているシーンがおおかったなぁなんて思ってしまった。

劇中歌舞伎仕立てで、浜松屋に乗り込むシーンがあるのだが、これがなかなか面白い。やはり歌舞伎出身ってことがあるのだろうか、雷蔵の娘に化けて揺すりを行っているシーンは堂に入っていて見入ってしまった。こういう試みをやって当時の観客の反応はどうだったのだろうか?僕は正直好印象だ。こういうことを今の映画でもやればいいのに・・・・・。もっとも今の映画界の状況では弁天小僧なんて見向きもされないのかもしれないが。

現代の映画を見慣れた者にとっては今回の弁天小僧はバタ臭いと感じるのかもしれない。曰く義理人情、勧善懲悪・・・・・・。過去の日本が持っていたそういった行動原理は破壊しつくされてしまって、今映画の中にそういったものを見ることはできない。近代というのははたして、なんなのだろうか?本当に破壊しつくしてしまって良かったのだろうか。ふとそんな思いに駆られた。義理人情、勧善懲悪は調理の仕方で今でも十分に面白いと思うのだがどうなんだろうなぁ。

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2005/07/29

眠狂四郎 勝負 あるいは市川雷蔵について

現在静岡市のサールナートホール3Fのシネギャラリーで市川雷蔵の特集をしている。

僕は彼の名前は知っていたが、どんな作品に出演して、どんな活躍をしていたか全く知らなかった。これは無理のない話しで、僕が生れる前に雷蔵は37歳で死んでしまっているのだから。

彼を知ったのはいつのことだったろうか?はっきりとは覚えていないが、最近若い女の人で雷蔵にはまる人がいると何かの記事で見かけたのが最初だ。でもこの記事を読んでも雷蔵がどこの誰で、どんな奴かというところまでは興味がなかった。

っで今日見たわけである。結論から言えば、こりゃ女の子だけがはまるものではないなということだった。

なんといっても美しいのだ。男の僕から見ても彼は美しい。こんな2枚目がいたのかと驚いた。なんというか雰囲気が素晴らしい。今の俳優にはちょっとないような感じだ。雷蔵という存在が厳然としてそこにあるという感じ。そういう存在感だった。

現在男の俳優は2種類に分けられるような気がする。かなり乱暴な区分けだが、一つはナイーブなタイプ。渡部篤郎のようなタイプだ。もう一つは精悍な野性味溢れるタイプ。坂口憲二のようなタイプ。ほとんど全ての俳優はこの2種類のうちのどちらかに入れることが可能なのではないか。かなり乱暴だけど。しかし雷蔵はこれのどちらにも入らないような感じだった。もっとも今日見た一本しか彼の作品を見ていないのだが。

さて作品であるが驚いた。40年も前の作品にもかかわらず、全く古びてないのである。これは新鮮な驚きだった。もちろんセリフの端々に作られた当時の面影を見ることはあるのだがそれも気にならないほどの鮮度なのだ。

もう一つ驚いたのは、フルカラーだったことである。僕はこの時代はまだ白黒と思っていたからこれには驚いた。一応映画史は頭に入っていたのだが、改めて過去の作品を見せられると知識だけの映画史ではダメなのだなと思ってしまった。

内容は文句なく面白い。幕府の潔癖な勘定奉行を眠狂四郎が守るという筋立てなのだが簡潔でわかりやすい。もっとも気に入ったシーンは5人の刺客に眠狂四郎が語りかけるところだ。あの当時にこんな斬新な演出をしていたのかとおもうと、驚く。すごい時代を日本映画は経験していたんだな、当時のすごさにただただ驚くばかりだ。そして風呂屋での決闘シーン。刺客を前に湯船で雷蔵がニヤッと笑うところなんぞしびれてしまう。ああいう、かっこよさが出せる俳優っていないよなぁと感心することしきりであった。

正直、もっとたくさんの雷蔵作品を見たいと思った。そしてもっと早くに雷蔵に会っていればと思った。雷蔵を女性だけのものにしておくのはもったいない。「女もすなる」と日記を書き始めたのが日本の男なのだ。雷蔵にはまってみるのはいかがか。僕ははまることに決めた。

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電車男・テレビ版その4

4回目も見てしまった。普段ドラマは見ないのにもはや、生活の一部となってしまった。

今回はサーフィンをめぐる話である。っていうかネットサーフィンを普通のサーフィンと間違える人がいるかね?と突っ込みたくなったが、ま、その辺りはご愛嬌。

今回のタイトルをつけるとしたならば、「正直」ということになろうか。エルメスの過去、妻子もちの男にだまされて云々の話と、サーフィンができず、正直にそれを告白する電車男の話は対照をなしていてそれがどうなんだと言われたら、どうなんだろう?わかりやすいのはいいことだけれども、それがあざといといわれたらよろしくないような気もするのだが・・・・・・・。

いいシーンだと思ったのは、電話ボックスのシーンか。あの辺りの心理描写というのは日本人らしく、繊細だなと思った。ただちょっとくさいような気がしてしまうのはいたしかたない。

もう一つよかったのは、オタクの友達が電車男の妹に会うシーン。兄の友達の本性を一発で見抜き彼が使ったタオルをゴム手袋で掴み、木の棒に引っ掛け燃やしてしまうのはなかなか笑えた。今回彼女は一言もセリフがないにもかかわらず、印象的なシーンだ。彼女の役はおいしいぞ!

今回は原作にはない創作部分であった。しかもこの創作部分、女の子の勘違いにそのまま乗ってしまった男が辻褄合わせに奮闘するという、実に古典的な創作部分であった。陳腐という言葉が頭に浮かんでしまうのはいけないことなのだろうか?もう少し何とかしようがあったものを。

最近のはやり、っていうか「ショムニ」いらいではないかと思うのだが、短いショットを多用して笑いを作っていこうとするものが多いような気がする。それがこの電車男で成功しているかといえば、微妙なところといわざるをえないのではないか。「ショムニ」はショムニを快く思ってない人々やなんとかして潰そうとしている人々との対比を効果的にテンポよく見せるにはこの手法は効果的だったが、電車男にはこのような対立概念が希薄であるように思う。周辺人物にはいろいろあるかもしれないが、基本的にエルメスは電車を嫌っていないという根幹部分での対立がない。従って短いショットを積み重ねても、その時々の人物の描写が散らばっているだけで、統合力が全くない。僕はそんなふうに思うのだ。

根本的に電車男のもっとも面白い部分は映画でも原作でも同じだが、エルメスという滅茶苦茶高いハードルを、オタクという滅茶苦茶さえない男がどうやって越えていくかというところにあるだろう。従ってエルメスの素性ははっきりしないし、またそのほうがハードルの高さがかえって強調されて面白いのだ。周辺の事情を切り捨てることによってハードルの高さが強調されるのだ。しかしテレビ版はエルメスの素性をはっきり描いている。もちろん今でも高いハードルではあるのだが、エルメスが電車男を嫌っていないという時点でこのハードルは幾分低くなっている。テレビ版がイマイチな作品に甘んじているのはこの理由によるものだろうと僕は思っている。ひょっとしてテレビ版は作り方を間違えているかもしれない。もっともまだ道半ばだから、そういう判断を下すのは早すぎるだろう。

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2005/07/25

田中麗奈

以前「姑獲鳥の夏」を書いたとき、僕は映画ファンなのにもかかわらず、映画監督で映画を見るのではなく、女優で見ると書いた。そして田中麗奈が好きだと書いた。

出会いは「がんばっていきまっしょい」だった。あの作品で僕はこの年下の女優にノックアウトされた。

なんといえばいいのだろう。何事にも一生懸命で青臭く、幼さを一生懸命脱ぎ捨てようとしている主人公とそれを演じている麗奈が妙な具合に重なり合って、何て素敵な女優さんなんだ!と感動した。それ以来彼女の作品のほとんどは見ているように思う。

また、彼女は映画しか出ない女優さんでもある。日本映画にがんばって欲しいと思う一映画ファンとしては彼女を応援しないわけにはいかないのだ。

ところで僕は彼女に会ったことがある。といっても握手会だったが(僕はオタクじゃないぞ、断じて!!)「玩具修理者」という短編映画の発売記念だった。長年追い続けた女優に会えるというのはとんでもなくうれしかったものだ。場所は渋谷だった。完全予約制だったので店の前で煙草を吸って時間が来るのを待っていると、なんと麗奈がマネジャーらしき人と一緒に店の裏口みたいなところに入っていくのに出くわした。本物に会っちゃった~という感動で足が震えた。握手会というのはその道のプロみたいな人がいて、場数を踏んで慣れているのだろう。入っていく麗奈に声をかけていた。こいつらよく声掛けられるなと驚いたものだった。僕は緊張でとてもじゃないがそんなことはできなかったのだ。そうそう、思い出すことがある。彼女はとても細かった、僕の女性の好みとしてはあまり細いのはいかがなものかというのがあったので、彼女の細さはちょっぴり幻滅ではあった。でもほんものの美しさは素晴らしかった。

で、2時間くらい待たされて、やっと麗奈と握手させてもらったわけだが、緊張でたまんなかったな。握手している時彼女はなんか言ってたな。ありがとうございますとかなんとか。こっちはしどろもどろだったよ。僕は麗奈を間近で見たはずなのだが、これが良く覚えていない。ただ、あの印象的な目しか覚えていないのだ。他の部分は消し飛んでしまっている。それくらい強烈な体験だった。スターのオーラってこういうものなのかと実感した。

追いかけている女優さんに会えたというのは本当にうれしいことだった。今でもあのときの体験は忘れられないものなのだ。まだまだがんばって欲しいな。これからも麗奈の出演作は見ていこうと思う。

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2005/07/24

バッテリーⅢ

たかが中学生の野球の物語にここまではまるとは意外だった。

陰湿ないじめの結果野球部が休部している所から話が始まる。

この陰湿な先輩からの嫌がらせというのがちょっと古い感じがしたのだけれども、あまり気にならないくらい読み進めることができる。

なにがこんなに面白いのだろうか?

キャラが立っているのは確かだろう。特に巧というキャラクターはまわりを巻き込まずにはいられないキャラとして作られている。それは矢口監督のウォーターボーイズの主人公とは正反対のキャラだろう。そしてキャッチャーの豪は天才に対峙する普通の人という関係になるのだろうか?この関係が読者の感情移入を容易にしているのだろう。

もっともそれだけではこの作品の魅力を説明したことにはならないなぁ・・・・・。なんといって説明すればこの作品を読んだ僕の気持ちを表現できるのだろうか?なかなか難しく、それだけに面白い作品だと思う。

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2005/07/22

電車男・テレビ版その3

過去2回、イマイチな感じだったので3回目はどうなるかと思っていたらやっとエンジンが掛ってきた。

過去2回は長い長い人物紹介だったんだなと思った。2回もやるなと突っ込みたくなるのだが。

今回はエルメスと電車が初デートをするところから、友達に会わせるという日の待ち合わせまでだった。

やっと、電車とネットの住人の関係性が緊密になってきたように思う。過去2回はこの点が不完全燃焼であったため、視聴者としては電車に感情移入できない感じだった。

さて今回は電車は友達と会うことに逡巡をするわけであるが、思ったのはこういった逡巡や葛藤が描かれていないと面白くないということだ。やはりドラマにせよ映画にせよ、そして小説にせよストラッグルがないと一歩も前に進むことはできないのだなと思った。

ひとこと苦言を呈すとすれば、あのバスケット選手の設定は陳腐だった。もう少しどうにかならないか?また、初デートで電車はあんちょこを手に食事をするわけだが、テレビ版では紙に印刷したものだった。パソコンなんかに詳しい人間がああいう紙であんちょこ製作するかね?映画版ではザウルスみたいなやつ(ああいう機械はなんというのだろう?)をつかっていた。秋葉系のオタクのディティールをもう少し考えたほうがいいと思った。

面白いと思った点は、電車が何か行動するたびにネットの住人は一人づつ消えていくという設定になっていることだった。それは電車の行動に勇気付けられて、パソコンの電源を切るということなのだろう。1回目の菊間アナ、2回目の塚地たぶん来週はあのバスケット選手が消えるのだろう。こういう設定は連ドラならではの設定で実に面白いと思う。この辺りはよく考えた設定だと思った。

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2005/07/18

バッテリーⅡ

30歳を過ぎてこの小説にはまるのだから僕の感性はそんなに年を取っていないのかななんて思う。

バッテリーⅡである。

巧の過剰な自信が上級生の陰湿ないじめに繋がっていくというのがこの第2巻の物語なのだが、面白すぎてどんな感想を書いていいかわからない。情けない話だ。

一つだけ思ったのは子供と大人の関係だ。野球部顧問のオトムライはかなり管理の厳しい先生だ。ちょっと古いタイプに描かれているような気がするが、しかしそれでもこれは様々なことを含んでいるような気がしてならない。

このオトムライは生徒を上からギシギシと押さえつけるように描かれている。そしてそのことに自信を持っていて、なおかつ、生徒をよく把握していると考えている。しかし陰湿ないじめが発覚してそれは崩れ去る。崩れ去った後のオトムライが出てこないからなんともいえないが、大人が子供を把握するのは何と難しいことだろうかと思った。本当にその子が何を考えているのか理解するのは非常に難しいと思う。

何を言っているんだか。何だか月並みな感想だな。だから生徒の自主性を重んじてなんて書きそうでこわい。そんなことが書きたいのではなく、子供を把握してやろうという傲慢な態度ではなかなかうまくないということが言いたいのかな?僕は・・・・・。

そうじゃないなぁ。なんだか書くのは難しい。書くのが難しいほど面白い小説なのだ。もしこのブログを読む機会がある人はこの小説読んでみてください。で、感想聞かせてください。

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2005/07/17

トゥナイト2

僕はこの番組が大好きだった。終わってしまってから何年経ったのだろうか?

確か番組終了の直接の契機はPTAではなかったか?子供に見せたくない番組とかなんとかいうアンケートでもってテレビ局に迫ったのだ。あの時はめちゃイケも合わせて槍玉に挙がったような気がする。PTAというのは考えが浅いものだと憤慨した記憶がある。

僕はその前のトゥナイトからみていた。東京で一人暮らしをはじめてうれしかったことの一つがこのトゥナイトが心おきなく見られるということだった。ゆえにテレビは何をおいても一番先に買わなければならないものだった。

心おきなく見るため、要するにえっちな映像が含まれているということでもあるのだが、しかしトゥナイト2はただただえっちな番組だったのだろうか?僕にはそうは思えなかった。

確かに北野誠の大人電話相談室なんてのはばかばかしい企画ではあった。なによりえっち画像も多かった。それは確かなことなのだ。でもよく内容を見てみれば、あの番組のえっちなシーンは人間の性に対する飽くなき貪欲さをよく表していたように思う。次々に現れるエッチな商売、器具、大人のおもちゃなど感嘆し、驚き、興味を引かれたが、しかし不思議とただのスケベとは違う雰囲気があった。それは人間に対する眼差しが根本的にPTAとは違っていたからだろうと思う。

人間は俗な部分も持っている。これを認められるか認められないかで差が出てくるのだ。人間は複雑だ。例えば政治や貧困問題に対して怒り、弱者に対するいたわりの気持ちを持つ「聖」なる部分もあり、同時にどうしようもなくスケベな気持ちも持つ「俗」な部分も持っている。PTAの大好きなプロジェクトXの登場人物もソープランドくらい行っていて不思議ではないのだ。

「俗」な部分は確かに醜悪で見たくないもの、見せたくないものなのかもしれない。しかしそれを全否定することはできないではないか。トゥナイトはこの部分を肯定していたように思う。よくフェミニズムの馬鹿どもが「性の商品化」というけれど、この馬鹿どもにはまさにその「性の商品化」の商売に就くしかなかった人々に対する眼差しがない。あるのは「かわいそう」という一方的で一面的な同情心だ。この商売をしている人にとってみればこの手の同情心はおせっかいなだけで、いい迷惑なのではないのか?トゥナイトにはこんなことはなかった。そこにあるのは同情心ではなく評価ではなかったか?山本監督がストリップに執着していたが、それはそこに美しさを見ていたのだろう。また度々出てきた風俗嬢にもそれがこの社会の中で、ある一定の大事な役割を果たしているという認識があったと思う。「性の商品化」というそんな単純なものの見方はしていなかったのだ。印象に残っているセリフがある。清水ひとみが番組中に語った言葉だ「ストリップは底辺かも知れないけど、私たちは芸事をやっているのよ

あの番組を毎週見ていた者で、「俗」な部分に対して、あるいは「俗」な部分に関する仕事をする者に対して、無神経な対応をする者は少ないのではないのかと思う。自分の中にある「俗」な部分に対してはこれと付き合い制御し、その仕事をする者に対しては敢えて深く立ち入らず奇麗に遊ぶというような。人間に対する、社会に対するマナーを学んだのではないかと思う。少なくとも僕は10代、20代であの番組を見て良かったと思う。そういう意味では今の若い子は不幸だと思う。性犯罪が特に若い子が性犯罪を犯すことが多くなっている。なぜそんなにぎらぎらしている?なぜそんなに女をただの物体のように扱える?そう聞きたくような事件が起きている。人間と社会の仕組みを少しは知っておいたほうがいい。そしてそれを学ばせてもらえない今の若い子は不幸だと思う。

「聖」なる部分のみを肯定し「俗」な部分を全否定する態度は、人間に対する深い洞察を欠く。例えば恐らくPTAが好きであろうニュース番組、NEWS23やニュースステーションといった番組を見ていて記憶に残る記事があるだろうか?少なくとも僕にはそういうものはない。今でこそニュース番組は見なくなったが昔は良く見ていた。あれほど毎日見ていたのにもかかわらず、覚えている記事がないのだ。どれほど頭を振って搾り出そうとしても、ちっとも出てこない。片面的な物の見方は結局何も身に付かないのだ。僕がトゥナイトでよく覚えているのはエイズの特集だった。確かあれは2週にわたって放送されたように思う。トゥナイトらしく若い子にインタビューを繰り返し、あまりにあっけらかんと答える女の子達に唖然としたものだった。日本でエイズが爆発的に広まるであろうという予測は、合点のいくものとして認識したものだった。あのときレポーターの原田さん(下の名前は忘れました。ごめん)が「同じ女として許せない」とコメントしていたのがこの問題の根深さを表していた。しかしこのエイズの話、普通のニュース番組でも扱っていたのではないか?扱わなかったわけがない。結局百凡のニュース番組はトゥナイトにかなわなかったのだ。というより、対象に迫りきれてないのだろう。一面的で、ニュース番組という性格上教条主義的でそんな連中が対象に迫ることは許されないはずだ。アンダーグラウンドな世界に背広に眼鏡のニュースキャスターは行くことができないのだ。別世界に住むことを是とし、「俗」な世界を非とし、片面的な世界観に安住するものは何も世界を理解できないということの現われだと思う。

どうしてあの名番組を潰してしまったのか、今でも残念でならない。清濁併せ持った生な人間の姿がそこにあったにもかかわらず、それを評価しないばかりか、かえって批判するとは何とおろかなことだったろうか?

サブカルやファッションネタもトゥナイトの独壇場であった。こうしたものをきちんと追いかけている番組がないから今どうなっているんでしょうかねぇ。よくネット時代は自分で情報を取り出せるなんていってすごい時代なったなんてしたり顔で語るニュースのコメンテーターがいるが、僕に言わせりゃ不便な時代になったものだ。情報が多すぎるのだ、しかもそれが正しいのかどうか判断するのが難しいのだ。かつてより従来のマスメディアの役割が高まっている。サブカルやファッションネタなんてどこから見ればいいのか途方に暮れることがしばしばだ。こういったネタのオピニオンリーダーとしての役割もトゥナイトは持っていたんじゃないかと思う。

サブカルやファッションネタといえば女の子たちもけっこうこの番組を見ていたのではないかと思う。あそこでやっていたのはなかなかとんがった世界だったように思うのだ。女性用下着の特集まで組んでいたからな。けっこう楽しみにしていた女性は多かったのではないか?

あのとき活躍していたレポーターの女の子達は今どうしているのだろう?司会の伊藤さんは元気にしているかな?高尾ちゃんはどうしている?なんか競艇かなんかの番組の司会かなんかをしているのを見たような気が・・・・・。海保君はどうだ?原田さんは、遠藤さんは?青木さんは参議院議員になっちゃったねぇ。とものしんは警察のほうに行ってたけど戻ってこれたのかね?下平はまだ結婚できんのか。あっ雪野さんとかどうしてんだろ。生井さんは?次郎さんは元気なのか、っていうより今でもあの髪型なのか?山本監督そういやぁ大河に出てましたね。乱一世は、暴言吐いてないか?勝谷氏はちょいちょいワイドショーでみるなぁ。北野誠はどうだ?歴代レポーターで一番好きだったせがわきりさんはどうしている?なんかこの間新聞記事で見たぞ。ハワイの学校に子供通わせてるって・・・・・・。って結婚してんじゃん。ショック。

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2005/07/16

宇宙戦争

以前の会社の人が言っていたことが頭に残る。

「トム・クルーズが映画に出てくるとトムの映画になっちゃうんだよね」

その時は笑って聞いていたのだが、今では正確な批評ではなかったかと思う。確かにトムが出ているとその存在感が強すぎて他の役者の芝居が見えなくなるきらいがあるかもしれない。だからこそスターのスターたるところなのだが・・・・・・・。

さて宇宙戦争だが、これもやはりトム抜きでは語れない映画かもしれない。何よりこの映画でのトムは父親でブルーカラーの役どころなのだから、珍しくて仕方がない。

ストーリーは至ってシンプルである日突然宇宙から侵略者がやってきて、巨大な兵器トライポッドで人間を次々に殺しまくる。主人公は子供2人とそりが合わないながらも、何とかして逃げようと家を出て別れた妻のいるボストンへ向う。

一種のロードムービーとも言えるものにもなっている。

パンフなんかを読むとスピルバーグは9.11以降のテロ戦争に警鐘を鳴らす意味合いをこの映画に含めているようだ。しかしそのような寓意性がうまく観客に伝わっているかどうかは疑問だ。「ジュラシックパーク」の時は人間の行きすぎた科学の発展への警戒心がよく現れ非常によい映画であったと思っているが、宇宙戦争は単なるパニック映画のように見えて仕方がない。少なくとも僕にはそう見えた。スピルバーグが狙ったほどの効果は上がってないんじゃないかと思ってしまう。

さてこの映画の白眉はティム・ロビンスだろう。あの狭い地下室の密室劇は素晴らしい緊張感に包まれている。この映画の最良の部分だ。これを見に行くだけでも価値はあると思う。

逆にいただけないと思ったのは最後のオチだ。なぜ宇宙人がダメになったのかをナレーションで表現するのは途中まで散々盛り上げておいてそりゃないよ、という感じがする。「インデペンデス・デイ」は宇宙人に人間が歯向かっていく映画であったが、歯向かっていくからこそ、そこに感動が生まれたのだ。偶然で宇宙人がダメになったのでは生まれるべきカタルシスが生まれない。これはいただけない。もっともスピルバーグの狙いはテロ戦争の批判であるから、このいただけないオチはアメリカの軍隊が諸外国にのこのこ出て行っても歴史や風土を共有していない現地人とはうまく行かないよということを言いたいのだろうと思う。宇宙人の敗北は近未来のアメリカの姿なのだろう。しかしそれを強調したいのならちゃんとその部分まで映像化しなければいけないと思うのだ。ナレーションで済ましていいはずがない。

さてスターウォーズと比較してどちらが面白いのかだが、僕は宇宙戦争の方が面白かったなぁ。みなさんはどうでしょう?

最後に一言、ダコダ・ファニングの絶叫はうるさかった。何度も絶叫するんだもの、たまんないよなぁ。

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2005/07/15

電車男・テレビ版その2

前回は電車男とエルメスに名前を与えたことによって作品が陳腐化するというようなことを書いたが、昨日放送の第2回目を見てその思いが強くなったように思う。

今回の放送では電車男が美容院や洋服を買って初めての食事の待ち合わせに行くところだが、おやおやと思った。

「めしどこかたのむ」は極めて印象的なフレーズであったはずだ。ここからエルメスと電車男の伝説が始まる大事なフレーズだと思っていたのになんともあっさりとした描写であった。また、電車男がファッションを変えて変身するところも随分あっさりした感じに僕には思えた。恋愛のターニングポイントとなるべきところがあまり大事にされていないように思ったのだがどうだろうか?せっかく面白い素材を無駄にしてしまった感じだ。もう少し考えがあってもいいように思うのだが。

やっぱり、人物の背景をごちゃごちゃ書いていて、それを語るのに忙しく、一直線に進んでいかない。なによりエルメスが何を考えているのか、イマイチよくわからない。2回目の放送なので手の内全部を明かすわけにはいかないのだろうが、どうして電車の食事の誘いに乗ったのかよくわからない。ま、わからないのが狙いなんでしょうけど。

それはそうと僕は白石演じる陣釜さんに驚いた。白石美帆があんなにはすっ葉な女を演じるとは思わなかった。容姿からいってエルメスでも十分にいける感じの女性なのに、気が強くて、男関係にだらしなく、あまりお友達になりたくないような女をあれだけ立派にやるのだからたいしたものだ。僕の中では陣釜さんなかなかの白眉だ。

あとネットの住人たち。彼らは電車の車掌の恰好をしていたり、阪神の熱狂的ファンだったり、不思議ちゃん系の女の子だったり、いろいろ個性的な感じを出してはいるがちっとも個性的な感じがしない。さらにいえば、電車の恋の話に熱狂的になっているとは見えない。盛り上がりに欠けているのだ。もしあれが、巷に溢れる恋愛のHOW TO本に代わったとしても十分に役目を果たせてしまう。要するに電車と住人達の緊密性が薄いのだ。従って住人達が電車に深い思い入れをいれるように見せても、僕には彼らが本当に深い思い入れを持っているようには見えないのだ。

電車男がなぜ面白かったのかと考えた時、ひとつの大きなトリックがあるように思える。それはエルメスは何も知らないということだろう。電車が秋葉系の洋服をかなぐり捨て、恋愛に突進していくその背後にはネットの住人という強力なバックアップ体勢があり、エルメスはそのことを知らないという単純な構造がある。そのギャップが面白いのではないのか?もちろんテレビ版も基本的にはその構造を踏襲しているのだけれど、でもネットの住人との関係が薄いとその構造が崩れてしまう。

またその構造は基本的に電車、つまり男性主観での恋愛談義の構造だ。このドラマは背景を書き込み、ネットの住人達との関係を薄くすることであえてそこのところを崩そうとしているようにも見える。構造がゆれているわけだ。これが次回以降どうなっていくのか、興味があるところだと思う。

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2005/07/14

姑獲鳥の夏

映画を見るにあたって、何をきっかけに見に行くことが多いだろうか?

映画ファンなら監督の名前を見て見に行くのだろうか?

答えはNOである。少なくとも僕にとっては。僕は何といっても女優で見に行くことが多い。その女優の中でも田中麗奈だ。というわけで「姑獲鳥の夏」は外せない。(ってかファンってだけだろ回りくどい言い方しやがって!)

見に行ったわけであるが、か、かわいぃぃぃ~!あの衣装なんかボーイッシュでよく似合っていた。なんといっても久遠時病院で関口と榎木津を「しっかりしてよ2人とも!」とどなりつけるところなどもうめろめろである。俺も叱られたいって素直に思ってしまった。さすが麗奈、何をやらせても素晴らしい。

で、内容なのだが別にどうってことないものである。はっきり駄作だといえる。特に気に入らなかった点は、説明がくどい!それに後説が長い!である。

とくに後説の処理はあれはどうにかならんかね?僕は原作を読んでないからなんともいえないが、あの後説は実に下らない。火サスみたいに崖でやれ、崖で!と思ってしまった。

あの後説は実に最低であった。「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」という決め台詞の通り、これまで起こった様々な怪奇現象を理路整然と説明をしていくのだが、これがいただけない。多重人格や死体のロウ化、はてはダチュラの花まで駆使して説明するのだが、あのセリフを聞いて思い起こした言葉は「クソリアリズム」だ。“科学”を使って様々な現象を説明するとそこにリアリズムが現れると感じるのは実は愚かな考えであると思う。それを使うと一見筋が通っているように見えるのだ。しかしそれは見えるだけの話で実は牽強付会だったりする。或いは理路整然としすぎていて、逆に胡散臭さを嗅ぎ取ってしまう。人間は理路整然が案外嫌いなものなのだ。正論をまくし立てられ腹を立てるのと同じ理屈だ。ぐうの音も出ない説明は息苦しく逃げ出したくなってしまうのだ。不思議な現象、この場合は怪奇現象というのは不思議なままでいたほうが面白いし、不思議な現象を不思議な理屈で説明されるほうが実は人間には心地いいのだ。

リアリズムとは何か。恐らく多くの人が様々な論考を重ねているのだろうが、僕の答えは単純で本物っぽく見えればそれでいい、というものだ。これは必ずしも理路整然とした説明でもなく、ましてや科学的な説明でもなく、ごく単純に本物っぽく見えればそれでいいというアバウトなものなのだ。本物っぽさとは例えばドラえもんがいい例だろう。現実にはあんなロボットはいないし、四次元ポケットなんてない。でも、ドラえもんはどらやきが好きで、ねずみが嫌いで、それも耳をかじられたから嫌いで、あのポケットは四次元で未来と繋がっていてそこから色々な道具を出す、という説明でいいのだ。それだけでドラえもんは本物っぽく見える。要するにリアリティとは最低限のお約束といったことなのだ。さっき崖でやれと書いたが、あれも同じことが言えると思う。重大な告白や謎解きの時は崖でやったほうが緊迫感が出て本物っぽいというお約束なのだ。今はどうだか知らないが、トレンディドラマの告白やキスシーンは何故か雨のシーンが多かった。そのほうが主人公達の気持ちをよく表し、本物っぽく見えるというお約束なのだ。

今回の姑獲鳥の夏はそのお約束を超越して、様々な細かいことまで“科学”を用いて説明しようとしている。そこまでやらなくてよいのだ。なんとなく筋が通っていれば観客は納得をするのだ。この映画で本当にやらなければならなかったことは登場人物の掘り下げであったはずだ。それなのに事件の説明を一生懸命やったためにこの映画全体の構造がもろく、事件の説明に押しつぶされたような印象を受ける。

要するに作り方を間違えたのだ。

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2005/07/11

バッテリー

シリーズ物の第1巻。

ここで言うバッテリーとは野球のバッテリーのこと。車じゃありませんな。

天才にしてとんでもなく高いプライドを持ったピッチャー巧をめぐる話なのだが面白い。

彼の一家はお父さんの転勤で春休みに岡山の新田という町に引っ越してくるのだが、この1巻で描かれる話はその引越し当日から、数日間、まだ学校にも野球部にも参加していないところまでの非常に短い期間の物語でしかないのに、非常に濃密な物語になっている。なんかワクワクしちゃう小説だ。

巧という主人公は天才で、天才であるがゆえに傲慢で人の気持ちを解さないかわりに、人にも自分を解さなくてよいというようなところがあると描かれている。とくに象徴的なのは体を人に触られるのを極端に嫌うことだろう。ピッチャーだから利き手を大事に守りたいというのはあるにせよ、体を触られるのがいやだと思うのは他人との距離の遠さを感じさせる。

そんな巧が新田に引っ越してきたのだ。この町で一人で暮らすおじいちゃんはかつて甲子園に何度もいったことがある、名監督という設定だ。なにかことがあるにつけじいちゃんが巧の羅針盤となっている印象を受ける。もっとも、彼が活躍するのはもっと後のことだろう。

さらに巧の弟青波も印象深い。巧より2歳年下の小学生だが、体が弱くいつも熱ばかり出している。その青波が1巻の終わりに野球をやりたいと言い出す。巧はお前じゃ無理だ、俺のようにはなれないと突き放すのだが、今まで見た事もない青波の自我に直面し巧派面食らう。

巧は母との関係も微妙だ。母は野球が嫌いであり、いつも青波の面倒ばかりを見ていて巧とは一線を置いている。かわいくないわけじゃないのだろうが、どう扱っていいのかわからないという感じだ。

だが、一番目立つのはキャッチャー豪だろう。彼は巧とは正反対の人物として描かれている。周りの人間に気を配り、コチコチに凝り固まった巧の自我を全力で受け止める存在だ。

第1巻はこの巧の自我が青波と豪によって揺さぶられ始める物語である。高すぎるプライドと有り余る才能で傲慢な言動を取りがちな巧は当然周囲と摩擦を起こすのだが、それまでその摩擦の原因を外に求めていたのに対し、これを内に求め始める物語である。自分に対する懐疑とでも言おうか?

1巻に描かれているのはそこまでである。2巻以降はどうなるのであろうか?まだ読んでないから当然わからないけれども・・・・・。早く続きを読みたいと思わせる小説だ。久々に心が熱くなったぞ。

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スター・ウォーズ エピソードⅢ シスの復讐

見に行ってきちゃいましたよ、今年一番の話題作。

思えばエピソードⅠ ファントムメナスから長かったなぁ。

思い出ありますよ。ファントムメナスの時は本当に人多すぎで見るのが大変だった。

僕はいつもパンフレットを買うことにしているのだが、このときは売り切れだった。

パンフが売り切れてたのは後にも先にもこの時だけだった。

エピソードⅡでは・・・・エピソードⅡでは・・・・・ってエピソードⅡ見に行ってないじゃん!

冗談かと思う向きもあるかもしれないが、本当に見ていないのである。

いやね、いつでも見れると思ったんですよ、ところが忙しくて見ることができなかったのね。

言い訳にもなってないな。

と、言うわけでかなり変則的な見方をしている僕であります。

こんなんで感想を書くなんておこがましい。

エピソードⅡを何とかして見てからⅢを見ようと思っていたのだがなんとなく先にⅢを見ちゃった。当然話しにイマイチ付いていけない。劇場で一人寂しかったよ。

感想は絵が奇麗だった、に尽きるが、でもあの映像を見てスゲーと驚いた人は少なかったのではないか?だってFFみたいなんだもん。宇宙船とか・・・・・。おかげでここCGだなってわかちゃうところ多かったよ。

あっ

あと、疑問あるんだけど。確かスターウォーズって、親子3代に渡る話だと思ったんだけど違ってたかな?確かルーカスが映画会社にスターウォーズの話持っていったとき、一番やりやすいルークの話から撮れみたいな話になってそれでスターウォーズが製作されたとどこかで読んだんだが、間違っているかな?ということはルークやレイアの子供達の話がまだあると思うのだが・・・・・・。誰かマニアな方お教え頂きたい。

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2005/07/09

電車男・テレビ版

映画の出来をあまりにも気に入ってしまい普段TVドラマなどちっとも見ない僕が

会社から走って帰ってしまった。ちなみにドラマを見た後、電車男のまとめのサイトを読んでみたりもした。はまっているのかも知れない。

さて、ドラマの感想だが、やはり連ドラ、1回目は内容が薄かった。しかも映画のようなスピード感はなかった。これはいたしかたないことだと思う。

当たり前か。どのドラマでもそうだが、1回目はどうしても人物紹介に終始してしまい面白くない。連ドラが好きな人はこれは一種の通過儀礼だと考えているのだろうな。忍耐強いことです。

さて、このドラマでは電車男とエルメスに初めて名前が与えられた。それと同時に描かれなかった、人物の細かい背景などが描きこまれていた。これが吉と出るか、凶と出るか見ものではある。手法としてはこうしたことはオーソドックスな処理といえるのだろう。でないと3ヶ月ももたないからという物理的な理由もあったのだろうが、僕としてはこれはなかなかの冒険ではないかと考える。

というのも、この作品は主人公の本名や背景が描かれないからこそ、様々な憶測を呼び、多くの人のイマジネーションが膨らんでいったのだと思う。一種のファンタジーがそこにあったといっても過言ではないだろう。

電車男の話は誰かの作り話に過ぎないという説があちこちで語られてはいるが、この行動はファンタジーの裏返しだろう。あまりにできすぎたファンタジーをリアルな世界に引き戻したいという欲求は、ファンタジーに共感する人々に対するファンタジー崩しだといえる。電車男の物語の擁護派や否定派というのは、ファンタジーに対する距離感の取り方の差であろう。

したがってこのドラマで電車男とエルメスに名前を与えたことは、ファンタジーにリアリティーを与えることになり、要するに陳腐化することではないか?

もちろんリアリティーを与えることによって得られる効果もあるだろう。細かい人物描写が可能となることは主人公の嘆きや葛藤をより克明に描くことができるのだから。人物に名前を与えたからといって単純に否定されるものでもないのだ。

そうは言っても疑問がないわけではない。

映画版でもそれからおそらく原作本でも、観客や読者はみな主人公の背景がわからないで見ている。要するに2ちゃんねるの住人達と同じ目線でこの物語を見ていることになる。したがって住人達が感じた感動と観客や読者の感動は基本的に同じ性質であると思う。だがテレビ版では2ちゃんねるの住人達は主人公のことを知らないが、視聴者は主人公達のことをよく知っているのだ!ねじれ現象が発生している。住人達と視聴者は全く立場が違うのだから、ひとつの言葉から受ける印象、感動はおのずと変わってくる。この矛盾をどう処理していくのだろうか?矛盾を内包した作品がうまくいくわけがないと思うのだがどうだろう?

でも、まだまだ一回目が終わったばかりだ。始まったばかりで何を言っても始まらない。最終回までじっくり見ていきたいと思う。

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2005/07/08

アクセス解析

前々から疑問に思っていたのが

我がブログは一体どれくらいの人に読まれているのかということである。

で、アクセス解析というのを7月2日土曜日からやってみることにした。

今日で一週間、どれくらいの人がきてくれたのかな・・・・・・

結論からいうと、76件(この単位でいいのか?)も訪れてくれているではないか!!!

そりゃあね、本当に人気のあるブログは一週間で何千件、何万件ものアクセスがあるのはしっていますよ。

でもね、こんな、日記と映画と本の感想文しかない我がブログに

これだけの人が訪れてくれたというのは感激だよぉ!

うれしい限りです。

皆さんどんな感想をもっていらっしゃるのでしょうかね?

(できればコメント残していただけるとうれしいな)と小さくつぶやいてみる。

で、この解析、すぐれものでいろいろなことがわかる。

アクセス元なる項目もあって、これは「ブックマーク」が一番多かったりする。

ブックマークしてくれている人がいるの!

これにはびっくり。ありがたいことです。感謝してもしきれないくらいです。本当にありがとう!

さらにこの解析、すぐれもので、どの記事が読まれたか調べられます。

やはりというか何というか、ソープランドのネタが多かった。やはりエロは強いと思ってしまった僕です。また、電車男の映画の感想文が多かった。話題ですからね。テレビ版の一回目も見てしまったし。あっ、テレビ版の感想文も書きますよ。

さらにさらにこの解析、すぐれもので、検索ワードやフレーズを調べられます。

やはりソープネタが目を引きますが、他に「中谷美紀」「リンチーリン」もありましたね。

同好の士がいるのでしょうか?う~ん、興味あります。

いろいろ書きましたが、訪れた方、これから訪れていただく方、皆様に感謝しております。

人気ブログとはいきませんが細々とでもいいから続けていこうと思ったしだいであります。

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2005/07/03

電車男

今年見た映画の中では最高傑作ではなかろうかと思ってしまった。

見たのは昨日だが興奮は今でも冷めやらない。

原作を読まずに見てしまったのだが、見ておけばよかったと思わせる力がある。

この作品の独特なところは画作りだろう。

いや状況が独特であるためそうならざるを得なかったのであろうが。

この作品の主人公とそれを応援するネットの住人達は実際には会うことがない。

ここが非常に独特なところだろう。

現実に存在する状況であるにもかかわらず、非現実的な状況。仮想空間とはそんなものなのだろう。

これをいかに映像で表現するかというのは難しい問題であったと思う。

この作品の画作りはそこのところをうまく処理し、全く新しい表現の仕方を提示したのではなかろうか。素晴らしいことだと思う。

特に電車男が彼女と食事をするにあたって、様々なアドヴァイスを貰い服を買ったり、髪を整えたりしていく場面は秀逸であると思う。さまざまなコメントが音声だけでなく文字化されあちこちに散りばめられ、現れては消えるさまはこういう表現があったのかと心底驚かされた。短い制作期間でよくあそこまで表現を高められたと思う。素晴らしいことだ。

あと印象的なのはオタク3人組の怪演だ。漫画喫茶で盛り上がり興奮している様子は実際にこういう人たちが、この電車男を盛り上げたのかなと素直に思える。同じ境遇の男としての親和性というのがあるのだろう。こってりした味付けの3人のはずなのだがそんなふうには見られないところもとっても素敵だ。

この3人組に関していえば、戦場でのシーンを入れたというのがいい。非常にぶっ飛んでいて楽しい。どうも衝撃的なことがおきるとこれが出てくるのだが、オタク人の心的表現方法とはこういうものなのかなと笑わせる。

エルメスをやった中谷美紀は非常に控えめな女性像というか、やさしすぎるくらいやさしい女性像というかとにかく彼女に惚れた観客は多いのではないか?ぼくもその一人だ。ひとつの理想像なのだろうな。今の時代を反映してなのだろうか、非常に強い女性、しかも男に比肩し得る強さが全面に出てくる女性がよく描かれるが、この作品のエルメスは弱いわけではなく、かといって強すぎるわけでもなく、一言で言えば大和撫子的な感じだ。こんな人がそばにいたらめろめろでしょうな。

電車男にも言及せねばなるまい。この作品を見て僕は101回目のプロポーズを連想してしまった。ようは不器用な男の物語なのだ。オタクというファクターを取り除いて見てみれば不器用でその裏返しとして、とても一途な男の物語なのだ。日本人はこういう話が好きかも知れない。数々の恋愛ドラマがあるが、不器用さが全面に出てくることってあまりないのではないかと思う。妙にうじうじ悩む男は出てきても不器用で一途な男はあまり描かれないような気がする。僕の見間違いかすまんすまん。

キスシーンはよかった。まさかあんな秋葉原のど真ん中でやるとは映画史に残るかもしれない。でもあのシーンは美しかったよ。気に入りのシーンのひとつだね。

さらにテレビ版と映画版がシンクロする箇所があるのだが、この遊び心が楽しい。嫌味がなくていいんじゃない。素直にテレビ版を見たいと思いました。

ひとつ注文をつけるとしたら、キスシーンのあとのエルメスの説明シーンが長かったな。あれはあれで必要なシーンとは思うが、ここに入れるのはまずいと思う。分散してキスシーンの前に入れるか、キスシーンの前に集中して入れるかすれば良かったのにと思う。

もう一つ気づいたことを。電車男がエルメスを追って走りながら、コンタクトを落とし眼鏡に変え、買ってきた洋服を脱ぎ捨て、オタク時代のTシャツが現れエルメスとめぐりあうシーンは、エルメスの前に現れた生な電車男とまさにその生な姿を愛してくれるエルメスとの心情が交差して美しかった。あざとさは全くなく二人の愛情表現としては最高ではないかと思う。

色々書いたが要するに見に行きましょう。これはお奨め映画です。賞が取れるかどうかは知りませんが絶対見に行くべき作品です。公開からすでに1箇月。公開がいつまで続くかわかんゾ!絶対見に行きましょう!!

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